第六章 (参考) 横手尋常小学校文集「あゆみ」の残したもの
二、文集「歩み」19号の教師の〝断想”とその時代 (省略)
三、文集「歩み」 (19号~31号)の内容概観 (省略)
四、文集「あゆみ」の残したもの
(1) 童謡から詩へのスタート (要約したもの)
全校文集「歩み」のなかでの詩作品の数は、少ないのですが、それを童謡といったり、また、詩といったりなど、ことばのうえでも指導のうえでも混在をみせます。でも、これは児童詩教育の発展過程のもつひと
つの姿、その現れといえなくもないでしょう。
時代を少しさかのぼって、大正デモクラシーの高揚期、童話・童謡雑誌「赤い鳥」(鈴木三重吉)の運動が全国的にひろがります。明治以来の概念的な綴方、また美文調を排して、文芸的に高めた功績は高く評価されています。童話・童謡に新風を送り込み、とくに大正13年(1924)頃は童謡全盛時代を築きあげたほど。文集「歩み」の創刊とされる大正15年(1926)と、「赤い鳥」運動・童謡全盛時代とのかかわりの大きさは切って切れないものがあったに違いありません。
「歩み」19号の発行にしても、それからわずか八年後。童謡が文集にたくさん登場するのもうなずかされましょう。教師の指導・奨励の外に、当時の幼年雑誌などの影響の大きかったことも考えられます。学級のなかでは、雑誌を購入してもらえる家庭、それを読める階層の子は多くはなかったし、そうした子どもから借りて読む子ども、順番待ちする子どもいたものでした。童謡を読む、書くといったことは、雑誌による影響の大きかったことは確かといえます。(…中略…)
「歩み」20号に初めて「参考詩」として、詩ということばが登場。これは指導のために用意されたもので、「これが詩です」、「こんな詩を書きなさい」・・・そのためのものであることがわかります。
① 父さんかへったな
あ
お靴と
あのぼうし
父さん
おかへりだ。
ここまでこゑが、
してゐるよ。
大きなこゑで母さんが
笑ってゐる。
(雑誌「綴方教育」より)
② 雨上りの庭 (熊本県五年生)
雨上りの庭の
明るさ
ばらのつぼみが
はちわれさうだ
(出典なし)
①②ともに児童自由詩といえるもの。その②などは、文芸的・感覚的な詩といえましょう。昭和初年代、「歩み」は早くもその20号で、童謡から決別した児童詩を掲げていることは、新しい児童詩の指導をそこに
みていたこからに違いありません。
①の詩は、教育誌「綴方教育」 (菊地知勇)からのもので、当時のもっとも進歩的な教育研究誌で、「赤い鳥」綴方・童謡を正攻法で批判したとされます。知勇は岩手出身、「歩み」も、おなじ東北の血の騒ぐのを感じたものだったのかも知れません。
中央のすぐれた研究水準に伍していこうとする、地方での研究意欲もさかんになり、地元秋田でも、「北方教育」(成田忠久・滑川道夫)が活躍をはじめたのも昭和初年代でした。
文集「歩み」には、まだまだ「赤い鳥」風童謡が掲載されていくのですが、これは直接的な理由としては、文芸主義・童心主義に徹したものとして、まずは読むことにそのねらいをおいたものと思われます。「赤い鳥」風童謡に決別し、新しい児童詩を標榜したのでしたが、その具体的な指導にまでは手がのびなかったのかも知れません。
21号に「詩」として“参考詩”のように掲載された次の詩があります。
③ 雪ヨフレフレ 一白 中西 健
(一) 雪ヨ フレフレ
アタゴノ 山モ
オシロノ 山モ
白ク白ク
マッ白ニ ツモレ
(二) 雪ヨ フレフレ
ドコモ カシコモ
マッ白ニ
スキーガ ヤレルヨニ
フッテクレ
④ カンネンブツ 一白 土屋昭郎
マイバンマイバン
カンネンブツノ
ホッケタイコガ
トホテイク
ドンドコ ドンドン
ドンドコドン
③の「雪ヨフレフレ」の詩の「アタゴノ山モ/オシロノ山モ」には、生活に根ざしたリアルさを感じさせられるのですが、指を折って調子をそろえての、これは童謡です。④の「カンネンブツ」は、一見童謡風なのですが、これは児童自由詩と言えなくもないでしょう。なにより自分のからだでとらえた生活感躍如、新鮮さが光ります。
③と④とを“参考詩”として、童謡と、児童誌とを並べたと見ることもできて、そこにこの時代の詩運動のゆれうごく一端をかいま見ることができます。
「カンネンブツ」のような生活をふまえた、自分のことばで書く詩がたくさん生まれていったらと応援したくなります。
26号になると次の詩が出てきます。
⑤ 軍馬市 四青 高橋良治
朝早く
馬のひづめが
ぱかぱかと
けたたまし
今日は軍馬だ
秋晴れだ。
当時の横手の町の「軍馬市」があざやかに切り取られています。ただ単に「軍馬市」の活況を眺めているだけでなしに、「今日は軍馬だ/秋晴れだ」の終行に結実される、対象にからだごとぶつかっているその一
体感が健康的でまぶしいばかり。しかし、軍馬に象徴されるように、時代は戦争への道へ転げこんでいってしまいます。
この項の終わりに、文集「歩み」の生み落としたもうひとつの詩をあげたいと思います。これは27号に綴方としてのっているのですが、この綴方作品をこそ詩として評価したいのです。
⑥ エンソク 一白 佐藤就一
ニギリママヲ モッテイキマシタ。
タマゴモモッテ イキマシタ。
カシモ モッテイキマシタ。
センベイモ モッテイキマシタ。
スシママモ モッテイキマシタ。
グリコモ モッテイキマシタ。
タクサン モッテイキマシタ。
ムカウノオヤマニモ イキマシタ。
テッキャウモ ミマシタ。
キシャモ ミマシタ。
オホキナマツノキノシタヲ トホッテ
カヘリマシタ。
*評 コンナニタクサンモッテイキマシタカ。ドンナニオイシカッタデセウ。
こんな詩なら、どんな子どもでもわいわい書けるのではないでしょうか。
「モッテ イキマシタ」の八行に及ぶリフレイン! 遠足のよろこびそのものの強調です。なんとも自然な……。思いだしてもうれしいよろこびが鉛筆を走らせているのです。「ムコウノオヤマニモイキマシタ」「…ミマシタ」「ミマシタ」とリフレインをかさねて、遠足の充実感をもりあげ、終行の「カヘリマシタ」のなんともいえない余韻がかわいらしい。
これが戦後、児童詩の主流にとって代わる散文詩風な先駆的一編として、すでに誕生していたことを知らされるのです。
文集「歩み」が時代にさきがけて、新しいひとつの詩のタネともいえるものを生み落としていたと言えます。
(2) 綴方このよきもの …残された綴方作品から学ぶもの・・・
文集「歩み」の綴方作品は、特集号などにみられるように、どうしても行事作文に左右されることが多かったといえるし、あわせて学校規模がマンモス校という物理的な要因からおこる、できるだけ多くの子ども
の作品をのせたいという編集上の意図からしても、どうしても短い作品でという制約で苦しんだのでないかと思われます。数編をのぞいて、長い作品が極端に少ないことが目立ちます。すぐれた作品にとって長短は問題外だとしても、やはり気になるところです。(…中略…)
ここでは、文集「歩み」が営々と歩んできた一千点をこえる綴方作品のなかから、いまのわたしたちに残された貴重な財産として、そのいくつかをみていくことにします。
十五ヤ 一白 磯貝忠則
ヒガシノ空カラマンマルイオ月サマガノボッテ来マシタ。ニコニコトシタオカホカラ、キレイナ光リヲ出シテ、ボクタチノセカイヲテラシダシマシタ。ボクノウチノオニハモソレカラオエンガハノススキモ、パアットアカルクナリマシタ。「オ月サマガ出タ」トイッテ、カケコンデ来タアツ子ハ、オソナヘモノノマヘヘ、スハッテ、ジットオ月サマヲミテヰマシタガ「オカアチャン オ月サマ、オテテモアンヨモナイノ」と、フシギサウナカホヲシテ、オマメヲモッテ来タ カアチャンニタズネタラ、カアチャンハ、ワラヒナガラ 「アンマリトホークテ見エナイノ、オカホハ大キイカラ見ヘルノ」トオシヘマシタ。ソレカラミンナデオ月サマヲ、ヲガンデ、オイシイオマメヲタベマシタ。
(文集「歩み」20号・昭和9年発行)
書きたいこと、綴らねばならないことが、からだのなかにうずうずして爆発でもするかのように一気に書きあがった感があります。観察がよくはたらいて、とぎすまされた感覚のはたらきが飾ることなしに、素直に生き生きしいばかり。対象に(オ月サマに)まっすぐに向き合えているからでしょう。
「ニコニコシタ オカホカラ、キレイナ光リヲ出シテ、ボクタチノセカイヲ テラシダシマシタ」
語彙の豊富さにおどろかされます。まるで、お月さまが作者の心の中をまで照らし出すかのようです。妹のことばからうけた「十五ヤ」の明るさ、楽しさの一点にしぼり切って書ききった力は、一年生ならではの純粋さ、ひたむきさをもとにしているからでしょうか。
ボクノオトウト 二青 畠山亮平
ボクハユウベオマツリヲ見ニ行キマシタ。オトウサン、オカアサン、オトウトトイッショニイキマシタ。
トチュウデオトウトハ「トンボノフウセン玉ヲ買ツテクレ」トイッテコゴトヲイヒマシタ。
オカアサンハオトウトニ買ッテヤリマシタ。オトウトハヨロコビマシタ。チョシテイルウチ「バン」トヤブシテシマヒマシタ。アタリノ人タチハビックリシマシタ。ボクモボクノカアサンモビックリシマシタ。オトウトハヨロコンデヰマシタ。
ソレカラマチヲミンナマハッテウチヘカヘッテネマシタ。
ヨガアケマシタ。オトウトハ目ヲサマシテ「アレガナイ、アレガナイ」トイッテナキマシタ。
ボクノオトウトハカハイイオトウトデス。
(文集「歩み」30号・昭和13年・7発行)
二年生で、こんな綴方が書けるとはおどろきです。
なんといっても題がいい。ふつうは「オトウト」なのですが、「ボクノオトウト」としたところに、この綴方の主題がかくされているのがわかります。
このことは、この文の「形」ともかかわっています。「ひとまとまりの文」のかたちの、「はじめ」「中」「おわり」が段落として、きちんと書き分けられていて、「おわり」での「ボクノオトウトハ カハイイオトウトデス」に、「ボクノ……」とした主題が生きています。
「中」での「コゴトヲイヒマシタ」「ヨロコビマシタ」につづく「トイッテナキマシタ」と終わる「オトウト」の行為・そのようすに、そのオトウトをじっとみつめて、オトウトと一体となっている作者のやさしさがわかります。やさしさは、人間的なぬくみとして、文の「はじめ」「中」「おわり」に一貫して流れているのがわかります。
それに、「コゴトヲイヒマシタ」「チョシマシタ」と日常語、また方言で書いているのですが、そのことばでしか表しようがなかった、ぎりぎりのことばの選択がすばらしいといえます。ここにどんな別のことばが必要でしょうか。方言でしか表し得ない、オトウトのかわいらしさが込められていて、するどくふかい表現となっています。
すぐれた綴方を書いた作者の力もさすがですが、それを書かしめた文集「歩み」の確かなあしあとをみる思いがします。
暮らしを見つめ、じぶんのことばで書く、綴ることのみごとな結実がここにあるといえましょう。
ひよこ 四青 出雲慎夫
毎日にはとりが卵を産んだので、五十個以上になりました。四號のにはとりは卵をみな産み終って「こゝこゝ」とないている。お父さんが「四號のにはとりへ、卵四十八だかせやうか」と僕に言った。僕は「四號なら四十八はだけないだらう。もしだけるとしても卵はつぶしてしまふだらう」と言った。お父さんは「では親とりを二羽借りてこやうか」と言った。僕は「うん」と答へた。そして「何と言ふ家へ借りに行くのだ」と聞いたら、お父さんは「七尾さんの家へ借りに行くのだ」と言ってで
かけた。僕もついて行った。
七尾さんの家の戸口に入ると、お父さんは「今日は」と言って戸を開くとお母さんが出て来て「何ですか」と言って、お父さんと僕を、にはとり小屋の方へ連れて行って呉れた。七尾のにはとり小屋はとても広くて、にはとりが沢山居ました。七尾の母さんが「見て下さい、どれでもよいのを借すよ」と言った。お父さんは「お母さんが借すによいのをえらんでから、借りて行くよ」と言った。すると七尾のお母さんが「このにはとりは、だくに上手ですよ、これも上手ですよ」と言って、とても大
きいのを見せてくれた。お父さんは「それを借りて行かう」といった。さうして、お父さんが一羽、僕が一羽持って家へ帰った。
すぐ三はらに分けて卵をだかせた。四號のにはとりへ十六個、七尾から借りて来たにはとりへも十六個づゝだかせた。それからずんずん日が過ぎて六月十八、九日目、卵を湯に入れて見たら動く、僕は嬉しくてたまらない。學校からかへると、お父さんやお母さんに「ひよこ生れたか」と毎日聞いた。もう少しもう少しと言ひ言ひのびた。二十日には、せきあらしが二匹生れたのだらう朝から晩までかはいい聲でないて居る。そのたびに親どりは「こゝこゝ」と言ふ。僕は見たくて見たくてたまらない。お父さんにお願ひしてやっと見せてもらった。かはいいひよこが二羽ゐて僕を小さい目でにらめている。ぼくはおかしくなってとうとう笑ひ出した。するとお父さんが「ひよこがおかしいのか」と言ったので、僕は「小さな目でにらめるからおかしくなったのだ」と言った。僕が笑ふとひよこは、親どりの中へもぐっていく。寒くなると思ってふたをしてやった。
二十一日には、四十八羽生まれた。小さな目玉をきょろきょろさせながらないて居る。十五センチの高いところからは飛べない。親どりのせ中へ上ったり、ひよこどうしで目をつついたり、胸の下からくぐっていったり、しりから出たり、いろいろなことをして遊んで居る。
いつか、お父さんの友達が来て「ひよこをうれ」と言った。お父さんは二十四羽分けてやった。おぢさんは「どうもありがとう」と言ってかへって行った。その時僕はお父さんに「あまりけると、ひよこがゐなくなる」と言ふとお父さんは「半分分けをしたのだ。二十四羽あればいい。お前に二羽呉れるから草をとって育てゝ卵をとってそれを売って貯金をすれ」と言われた。僕は毎日草を取ってひよこを育てゝゐる。
今では大きくなって十五センチのところからはどんどん飛ぶ。
(文集「歩み」30号・昭和13・7発行)
いっぱしの飼育者、生産者です。
「四號のにはとりは卵をみな産み終って“こゝこゝ”とないている」
「四號なら四十八はだけないだらう。もしだけるとしても卵をつぶしてしまふだらう」
四號の描写にしても、父との会話にしても、にわとりとの生きたかかわりをもっているからこその表現です。自分のことばで書かれていて、それこそ、お手伝いの域をこえた確かな生活があります。父親の職業は何なのか、そのことは書かれてはいないのですが、共同経営者ぶりがほおえましいと言えます。それにしても、卵を抱かせ、かえすまでのいちずさ、みごとな執着ぶりはたいしたものです。
書き終わっての見直し、表現の不足、また、文の間違いをなおすなどの「推敲」のしごとの足らなかったのが惜しまれます。
終行の「今では大きくなって十五センチのところからはどんどん飛ぶ」には、作者ならではのひよことの一体感、その喜びがあふれんばかりです。
焼芋屋 五白 窪谷雅挌
焼芋屋の店先は何時も大人や子供でにぎやかである。昨日僕が買ひに行ったら焼芋屋のをばさんは「さあどいたどいた」と大きな調子のよい聲でいった。そうして今まで釜の前に冷さうな真赤な手を暖めている子供達をおどかしながら焼釜のふたをとった。釜の中からは白い湯気がもうもうと出たかと思ふとをばさんの顔は何かで包んだようにぼつーとなって見える。そうした白煙は、ひさしの間からすーとはひ上って寒い空に消えて行く。をばさんが釜のふたを開けるとすぐに子供達は「をばさんくれよ」「をばさんちょうだいちょうだい」と皆一銭玉をにぎって、てんでににぎやかだ。皆がくれよくれよと言っても、中々呉れないので、誰かが「馬鹿見た」と言ふ。するとそばに買ひに来て待っていた如何にもへうきんそうな、大人が「どこで馬鹿を見たんだ」と言った。すると子供達は「その馬鹿ではないのだ」と口々に言った。そして誰が先とか後とか言い合って皆釜の中のお芋をみつめてゐる。しかし、をばさんは、さっきから来て待ってゐる子供達には目もくれないで大人の人におせじの様な事を言いながら「一銭や二銭は後だ」と言ってふかふかしたようなお芋を大人の人にやってしまった。子供達はつまらなそうにして芋屋のをばさんと大人の人の顔を代る代る見ている。僕も腹だゝしかった。しばらくして、をばさんは残りの小さいのを子供達にやった。それでも子供達はさっきの不平は何時の間にか忘れたように笑顔で「をばさんくれよ」「わたしにもくれよ」と、小いかわいらしい手を出す。中には「おれにもくれよ」、言ひながらひびのきれた、ごそごそした手を出す子もある。僕はそれを見てゐて、僕が若しも焼芋屋だったら、たとへ子供でもそして一銭でも先に来た者には先にやろうと思った。子供達は焼いたお芋をふところにしてうれしそうにとんでいった。
(文集「歩み」23号・昭和10年12月発行)
「焼芋屋」の店の前に立つ、がんぜない幼い子どもたちをみる作者の観察力の確かさ、ふかさ! 不正を憎む作者の気持ちが、眼前の子どものリアルな描写によって読むものへつよく訴えかけます。
会話が、その子ども、またおとなのきもちのヒダをまで映し出すすぐれた描写をみせます。どこまでも事実にそっての描写は、その観察力の確かさとで、なんとも鮮明でふかいのです。p>
中には「おれにもくれよ」と言ひながら、ひびのきれた、ごそごそした手をだす子もある…
作者は、そうした事実のひとつひとつから、自分の思いを強くしていけたのです。
段落のないこと、まだ文のあらっぽさを多少残しているのが残念です。
「ひとりの喜びはみんなの喜び、ひとりの悲しみはみんなの悲しみ」…これは北方教育の若い教師たちの実践を端的に示す合言葉(指標)のひとつ。文集「歩み」は、北方教育との直接的なかかわりは持たなかったのですが、同じ時代、くらしをリアルにみつめるまなこは、村にも町にも大きな違いはなかったことを知らしてくれます。
アイヌのおばあさん 五赤 熊谷貞夫
アイヌと聞けば、すぐ目のくぼんだ、まつげの長い、あごの突出た、こい髯の持ち主…女であったら、口や手の甲に入れ墨をした、気味悪い姿を思ひ浮かべます。
ことしの夏、家へ物売りに来たアイヌのおばあさんには、今でも忘れることが出来ない。
おばあさんは、もう六十を越したであろう。
頭はほとんど白く、腰もずいぶん曲がってゐた。そして、やさしい目で僕たちを見ながら、古ぼけた箱を取り出し、中から糸巻、はしなどを出して、前歯のかけた口で不自由さうに、「どうぞ、これを買って下さい」と何だかへんなふしのついた言葉で言ひながら、箱を僕たちの方へよこしました。
僕は、なんだかかはいさうになったので、母にたのんで、糸巻を一つ買っていただきました。
するとおばあさんは、ていねいに、おじぎをして、しばらくもじもじしてゐたが、やがて古箱についてゐた荷札を見せて「ここにかいてある旅館の住所を教えて下さい」と聞くので、僕が連れて行ってやりました。旅館の前に来ると 「私も年とってーこの旅館あたりを、行ったり来たりしましたよ。」などゝ笑ひなから話ししました。
僕が、かへる時、旅館の前で、こっちを見ながら、入墨した手をあげてゐました。
(文集「歩み」28号・昭和12・12発行)
偏見のない、子どもらしい素直な目で切りとった生活の一断面。
当時、お隣の「朝鮮」から来た人たちが、横手の町にも何家族か居住していました。特に女性(母親)の人はチョゴリ(民俗服)を着ていましたから、すぐわかったものです。きちんとした職を持てず、「ボロ買い」など廃品回収のような仕事しかなかったようです。
直接的な武力脅迫下で、日本に併合させられてから、朝鮮の人たちの苦しみがはじまります。ほんとうのことを知らされなかった当時は、「朝鮮、朝鮮!」と蔑視するばかりでしたから、町かどでチョゴリの人が、「朝鮮! 朝鮮ト バカニシテ…」と慣れない日本語で泣き泣き訴えるのを聞いたものです。
アイヌの人を外国の人とは言えないと思うのですが、とにかく偏見・差別の強かった当時、作者の体験は貴重です。
「口や手の甲に入墨をした、気味の悪い姿」の先入観念を持ちながらも、しかし、「今年の夏」の実体験を、あれこれの先入観念を交えず、ありのままに、見たまま、感じたままを書きとっています。事実にそって、そこに心うごかしたことをよくみつめとらえています。
文のごたごたは、落ち着いて見直しをすればよいのですから。
冬の生活 五青 菓子卯吉
十二月の半ばをこせばもうどこも真白になる。そしてだんだん寒くなる。僕の家の父母は早く冬が過ぎて暖くなってくれるとよいと言ってゐる。冬になると僕はまづ朝早く起れない。家の人もなかなか起きない。お母さんは赤ちゃんをだいてゐるので冬はたいへん家の仕事がおそくなる。そのため僕は時々學校をおくれてしまふ。夜になるとみな小さな妹達はこたつにあたってこっくりこっくり眠ってゐる。お母さんは六時頃家へ帰って晩飯の支度をするので七時半頃でないと御飯を食べられない。夏であればこの頃電気がつくのに今は四時頃もう電気がついてしまふ。僕はお母さんを大へんかはいさうに思ふ。手をみればひびで手がざくざくわれ、血のたってゐるときもある。それをみると僕はますますかはいさうになってくる。さうして毎日水でおしめを洗ひ、さうしてしみたおしめを冷めたい手で入れてくる。晝はどんな吹雪でも町へ行く。夜は夜でご飯を食べると赤ちゃんがえづめにはいってゐておしりが痛いといって泣き出す。だが母はいろいろな用があってなかなか赤ちゃんをだかれない。夜の仕事がすんでやうやくだくときは大へん喜ぶ。だから僕はお母さんがこんなに難儀をしてゐることを考へると何んでも母のいひつけを守り早く大きくなって母を楽にさせやうと冬になれば時々思ふ。僕はちゃわんを洗ったり妹達を遊ばせたりして手助けしてゐる。母のねる時はもう十二時をうってゐるという有様です。春夏秋はよいが冬になるとこういふやうに家の仕事がおくれる。
(文集「歩み」31号・昭和14年3月発行)
家の暮らしのこと、母親の苦労・せつなさといったことなど、ふつうそれを前面にとり出して書くなどということは、かなり勇気のいることで、ふつうはそこから逃げ出すのですが、作者はそれを正面にすえて書いています。そこがこの綴方のもっともすぐれた点といえましょう。しかも五年生。
この作品をどう評価するか。「上手に書けました」では済まされない問題をかかえます。つまり、作品に書かれた“生活”を、どう評価し、そこからどう指導していくかということになります。
しかし、こうした子どもの生活へまで立ち入ることなど、まったくお手あげの状態であった時代でした。教科書中心主義で、現実の子どもの生活などは見向きもされなかったのですから。この作品を前に、指導の先生方の喧喧諤諤の姿が見えてきます。どう解決されたか、しかし、文集「歩み」はこの31号をもって終わってしまいます。
(3) 「調べる綴方」のこと (省略)
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