第六章 (参考) 横手尋常小学校文集「あゆみ」の残したもの
* おわりに(まとめとして)
① 童謡と児童誌
文集「歩み」での童謡や詩について、「詩教育運動の発展過程のひとつの姿」としたのでしたが、どうもぼんやり過ぎます。児童詩の歴史としてはもっと厳密にたどるべきでしょう。童謡と児童詩との関係を「生活綴方事典」の《児童詩教育の歴史》の項では次のように記述しています。
…はじめて児童自由詩を提唱したのは「赤い鳥」による北原白秋であった。募集した子どもの童謡作品のなかにふくまれている自由な律動感に白秋が注視したのがはじめてである。「はじめ児童作品のほとんどは、成人作の童謡の模倣であった。即ち調子本位の童謡であった。之等の模倣童謡より一転して、児童本然の感動のリズム、その自由詩の形式を以て現れた作品を見た私の驚愕と歓喜とはどんなものだったろうか」と白秋は[鑑賞指導・児童自由詩集成](昭和八年・アルプス社)の解説で述べている。…(略)…
(この項、滑川道夫による)
文集「歩み」19号発行の前年にすでに、北原白秋は児童自由詩を提唱しています。その初期は童謡的児童詩であったのは必然で、後年いわゆる「赤い鳥自由詩風」と呼ばれるようになり、昭和4~5年頃から、児童児童詩として全国に広がったとされます。「北方教育」も児童詩を多くとりあげましたが、「赤い鳥」の児童自由詩の作風をふみながら、しだいに散文詩風な生活詩を形成するにいたった…とも「同書」にあります。
以上、児童詩の歴史の走り書きです。
おわりに、「北方教育」での《童謡と児童自由詩》についての論稿のひとつをみておきたいと思います。
…さらに童謡が童心の特質を誤謬して類型的な整調に堕したのに、児童自由詩は童心そのものの自然な表現、形式をとったがゆえに、常に新鮮な形式を創造し、常に児童に生き働くのである。…(略)…
これはかつて、童謡のように形式に拘泥された結果ではなく、常に醇乎たる自由詩的発想、童心の自然さが生まれたものである…。
(「北方教育」第2号・昭和5年4月1日発行。「綴方における文学性と児童自由詩考」須田文蔵より)
童謡と、児童自由詩との対比が鮮明です。「北方教育」社の子ども向け「北方文選」誌でも、児童自由詩を子どもにわかりやすいように童詩といったりしているようです。童謡との決別は、いっそう現実の生活に根ざし、その生活感動を端的に表現したものとして「児童生活詩」とよばれるようになったとされます。
「北方教育」を代表する詩として次の詩があります。
きてき 金足西小四年 伊藤 重治
あのきてき
田んぼに聞こえただろう
もう あばが帰るよ
八重蔵
泣くなよ
学級文集『木立』三号 指導/鈴木三治郎(昭和6年)
さきに引用した「エンソク」(一白 佐藤就一)は散文詩風児童生活詩と位置づけられていいものと思います。
② 「ありのままに綴らせる」「具体的にくわしく」ということ
さきにも触れましたが、昭和初年頃、綴方の作品研究を通して、秋田が生んだ「北方教育」の青年教師たちによる「新しい子ども観」「新しい生活観」は、教科書主義・公式主義的なこれまでのとらえ方からのコ
ペルニクス的転換を意味するもので、綴方指導の大きな指標となったといわれます。
その具体的な指導のひとつが「生活をありのままに綴らせる」でした。
生活をありのままに綴らせる
そのための第一は、自分と自分のまわりの生活現実を「ありのままに」「具体的に」生活をとらえさせるということは、作文教育のためばかりでなく、教育全体、学問の世界にかかわる。…(略)…生活の真実も発掘させられる。「ありのままに」「具体的にくわしく」は生活探求の端緒であると同時に、綴ることの欠くことのできない方法である。
(『鈴木正之北方教育著作集』
〈労働と作文〉《生活をありのままに綴らせる》 鈴木正之著より)
心がけ主義・修身主義にがんじがらめにされていた子どもたちに、いまある生活現実のあるがままを、事実に即して、自分のことばで見る、綴ることを通してこそ、きびしい現実に立ち向かう、くじけない生き抜く力をとらえさせたいと『北方教育』の青年教師たちの実践はそこにありました。
喜びの時は喜びを、悲しみのときは悲しみを、怒りのときは怒りを、「ありのままに」出し切る。美しいものと体面したら美しいと、ウソを見破ったらウソと、はっきり言い切る。これが人間らしい人間である。
しかし、感情のひとり歩きはいけない。行動にともなう喜怒哀歓でないかぎり正しい生活感情を浄化することはできない。自立過程、労働過程にあらわれる感動、心の屈折を、その過程とともに綴らせることによって、生きるちからの糧としていきたい。 (「同書」)
するどい、新しい「子ども観」「生活観」が青年教師らによって叫ばれたのでしたが、「冬の生活」の作者までには届かなかったようです。
「冬の生活」という作品は、時代が書かしめたともいえます。息つくことさえも不自由であったといえるほどの時代は、この作品が示すように、「なぜ」と問い返すことが出来なかった時代だったともいえましよう。暮らしのひとつひとつのもつ苦しい、せつない現実へ、もう一歩踏み入ることを許さなかった時代-修身主義・心がけ主義にがんじがらめにさせられていた子どもたち! まさしく「なぜ」のない時代だったといえます。
たとえば、「冬の生活」の作品では、
「僕の家の父母は、早く冬が過ぎて暖くなってくれるとよいと言ってゐる。」
「冬になると僕はまづ朝早く起れない。家の人もなかなか起きない。
「(母は)晝はどんな吹雪でも町へ行く」 (註 町=立野・市場)
などなど、「なぜ」をバネにし、テコにして、もう一度「冬の生活」に生起するひとつひとつを「ありのままに」「具体的にくわしく」書くこと、「みつめなおすこと」で、みえてくる人間の喜怒哀歓をつかみとることこそ、もう一度自分にはねかえってくる「生きる力・生き抜く力」の生活感動のほりおこし、それを可能にしえるのだといえましょう。
「綴る力(書く力)」イコール「生きる力」となる人間教育! 秋田が生んだ「北方教育」は、これまでの修身主義的な教育を否定し、新しい子ども観・生活観をうちたててすぐれた綴方指導を実践したのですが、時代はそれを否定したのです(まだ、それを理解しえなかったのです)。
大正以来つづいた学校文集「歩み」も、「冬の生活」を書かしめたそのあとは、生まれ出ることをしなかったのです。つまり、綴ること・書くことをさえ、時代は抹殺してしまったといえましょう。
③ 「冬の生活」の作者/菓子卯吉君について
「冬の生活」の作者(五青/菓子卯吉)について、同級生による「思い出」が記されている一文があります。
最後の「準備場」での思い出
少年飛行兵に志願し、戦死した同級生菓子卯吉君とは、小学一年から高等科二年まで八年間も同級生であった(「準備場」の一年を加えるとすれば九年)。高等科のときは、受け持ちの黒沢頼章先生(後に横手南小学校長)から、たいへん褒められた同級生だった。書道は上手で、柔道は最高強かった。鉄棒は大車輪から何でもやれた人で、先生から、「出藍の誉れ」とまで褒められたほど。なんとしても惜しい人物を死なしてしまって、ほんとうに残念でならない。彼らしい生き方だったとしても、思いだすたびに胸がうずく。
(《『準備場』といわれた学校》〈回想/最後の準備場より〉より・若林敬一郎 文)
*註① 「準備場」
高等科二年のあと、「郡立准教員準備場」(一年)があった。最後の「準備場」は、「横手工学校南組」として併立。昭和18年3月卒業と同時に終校。
*註② 「出藍の誉れ」
藍から採った青色は、藍より青い。弟子が師よりまさり、勝れているたとえ。「出藍の誉れ」=弟子がその師匠を越えてすぐれているという名声。(「広辞苑」)
「出藍の誉れ」高かった作者は、「準備場」在学中(昭和17年ヵ)に海軍少年飛行兵を志願、合格。そのことを伝える、さきの〈回想/最後の準備場〉のなかの短い一文があります。
在学半ば頃、海軍航空機(少年兵)試験を受けに、菓子君と柳沢君とわたしとで大曲に行ったことがあった。菓子君は合格、柳沢君とわたしは不合格であった。わたしは近視のためだった。菓子君の死報は在学中であったと記憶している。
(《「準備場」といわれた学校》〈回想/わたしと準備場〉・鎌田光二文)
年表を追って時代を走ってみます。
昭和14年(1939) | 3月 | 文集「歩み」31号に「冬の生活」が載る。 |
” 15年(1940) | 11・20 | 北方教育同人ら、治安維持法違反容疑で逮捕。 |
” 16年(1941) | 12・8 | 太平洋戦争はじまる。 |
” 17年(1942) | | 菓子卯吉、海軍少年兵志願、合格。 |
” 19年(1944) | 6・15 | アメリカ軍サイパン上陸。菓子戦死。 |
| 12・24 | B29、東京大空襲。 |
” 20年(1945) | 8・6 | 広島に原爆投下。 |
| 8・9 | 長崎に原爆投下。 |
| 8・15 | 敗戦。 |
同級生の証言によると、彼はサイパンで戦死といわれます。昭和三年生まれですから、満十六歳の少年を死なせてしまったことになります。
おそらく彼の死は、年表にみられるように昭和19年6月15日かと思われます。南洋諸島の日本委任統治領サイパン島。最前線基地で日米の大激戦地で知られる島内は、トロッコが走るというあまり大きな島ではなかったと聞きます。戦争はむごいばかり。
広島・長崎の原爆のことも知らず、8月15日の敗戦も耳にすることなく、そして、冬のない南の島に眠っているとしか言えません。胸がうずくのです。
南天にかがやく南十字星も、平和でなくては真に美しいとはいえないでしょう。
④ 文集「歩み」終刊のことなど
文集「歩み」31号(昭和14年3月発行)につづく号は発行されていないようです。残されていません。これを裏づける資料もあませんが、やはり、時代が許さなかったものと思わざるをえません。
[昭和10年(1935)、政府が国体名徴に関する声明を発表。衆議院では、「国体ニ関スル決議案」が可決され、昭和13年(1938)には「国家総動員法」が公布……「国家」と「忠君愛国」以外の思想はすべて異端とされ、……「生活」「進歩」「改革」などのコトバは遂にタブー。仕事を進めるうえでコトバを失ってしまうほどの悲しみはあるものであろうか。まさに暗黒時代の到来ではなかったろうか。」
(「北方教育 実践と証言」“まえがき”部分の要約)
中央の出版社も相次いで終刊、廃刊が続き、そうした事情を伝える貴重な次の一文が胸をうちます。
昭和十三年、「国語教育研究」が廃刊され、この終刊号の「豆手帳」に載った次の小文が“白い国の詩(うた)”となって胸を打つのである。
秋である。
丘陵の竹叢は黄に 山嶺は白く虚空は青い秋である。
軍国の秋に文化の危機である。
独り想え。
虫の音の細く哀しき夜半に、かの戦国の昔、
文化の光が法燈のなかに燃えつぎ燃えつぎしたことどもを。
そして誓え。
この嵐の中に、次代を育てる文化のバトンを、
われわれの腕から腕へ正しく速く送ることを。
ことばを奪う時代への非運・痛苦の思いが、「豆手帳」氏の一文に激しく燃えさかります。中央での終刊・廃刊にみられるように、昭和13年、ことばを育てる文集「歩み」のおかれた事情にもかさなるものがあった
のだろうと考えられます。32号はついに産声をあげることなかったのですから。しかし、こうした事情については何ひとつ語られていません。ことばを失なった時代は、盲目そのまま暗黒の時代をかけ落ちていってしまったのでしたから。
キネントウ 一年 津浦 昭
ボクノ ニイサンガ ジブンノツクッタ キネントウノ上ヘ ノボッテ ミテ、「ヤア アタゴ山ガ スッカリ見エルヨ。ムカフノタンボデ タレカ タコ上ゲシテヰルヨ。」トヨロコンデヰマシタ。ボクモノボッテ ミタクナリマシタ。上ッテイコウト オモッテ 上ルト ズルズル オチテシマヒマス。ナンベン ヤッテモ スベッテ ダメデ ザンネンデシタ。
(文集「歩み」21号/昭和10・3・22)
学校記念日を祝う雪の塔-「キネントウ」の一文。高学年が造った大きな高い雪の塔です。自分のニイサンがそれに登っているのですから、とうぜん自分も登ってみたい……けれど、ズルズル オチテシマウし、ナンベン ヤッテモ ダメなのです。
したことを、した、した…と順序よく綴られていて、「ザンネンデシタ」で終わる行動と気持ちのしぜんな結合に、一年生らしい至純の心がみえてきます。綴ることで、書くことで生き生きしいことばが育てられるのです。
雪ふみ 四白 小川正太郎
今朝起きて見ると、雪が一ぱい降って居ました。僕は道をつけやうとしました時、後の方から「どこへ行く。」とお母さんが言ひました。僕は「道をつけに行く所です。」と言ひますと、お母さんは障子をしめました。雪は一ぱい積って居ました。雀が柿の木の枝から枝に飛び移る度に、枝の雪が、パラパラとこぼれて居ました。一ペんふんむと、もう汗が出て来てポカポカ暖くなって来ました。まだすっかりふめないのでもう一回ふみ直さうとしました時、雪が僕の頭へかゝって體へ入りました。思はず「ひや。」と叫びますと、後に居た妹が「あら、おどろいた。」と言ひました。それからすっかりふんで家に入り、神様をおがみました。「今日もけがのないやうに。」と。それから朝ごはんを食べました。働いたは何とも言へないよい気持でした。
(文集「歩み」28号/昭和12年・12・27)
六年間の小学校生活のなかで、ロクに勉強もせず、宿題もせずといった最劣等生が、文集にのることではじめて、たった一回褒められたという記録保持者! 褒められるということは、からだのオクのオクのところへしずかにことばのタネがまかれたようなもので、その生涯を支えます。左右もします。
文集「歩み」の、そうしたことばを育てる“歩み”を、時代は奪ってしまったものだったといえましょう。
*註 さきの“「豆手帳」氏”の一文は、「北方教育研究」(第六号・2003年6月10日発行/戸田金一)のなかにある「綴方教育への私的考察」(東北の文化誌《白い國の詩》編集主幹・*木下耕甫)からの引用です(無断転載をお許しください)。
2003年2月、亡くなられた木下耕甫氏は横手市金沢のご出身。小学校の時、受持ちの加藤義男先生から、「きてき」の詩を教わったことが、氏の詩人への道を決定づけたとのエピソードは有名です。
*註 文集「歩み」をたいせつに保管・保存されておられた土屋昭郎氏、柿崎了氏のおふたりにはふかく御礼申しあげます。また、お借りできたことにも御礼申しあげます。文集全冊の写真御協力は小坂良太郎氏です。ふかく御礼申しあげます。
ありがとうございました。
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