山と川のある町 歴史散歩

第二章 季節と祭り

(1) キュウリ神さん

  『横手郷土史』(昭和8年/初版)の〈年中行事〉の項に、次の短い記述があります。

○ 六月
祇園祭(ぎおんさい)  十五日は祇園の祭典とて、胡瓜(キュウリ)を捧げて拝する。

  また、古い記録としては『雪の出羽路』があります。その《横手郷》の項に次の記述があります。

○ 大乗院 寺町
牛頭天王ノ社(ごずてんのうのやしろ)
境内の土蔵の内に斎奉る(いきたてまつる)。…本祭礼は六月十四日十五日献供如恒例、また諸願報祭の人ら胡瓜(キュウリ)を奉る事横山のごとし、参詣群衆おして知るべし。

  これの書かれた文政年代(1818~30)、すでににぎやかな祭りであったことがわかります。祭日は六月十四~十五日で、キュウリが供えられるとあって、横手の町の古くからあった祭りのひとつであったことがわかります。その頃、「キュウリ神さん」のお祭りと言ったものかどうかはわかりませんが、わたしらは小さい頃から「キュウリ神さん」と言ってきたものでした。

  この日の夕方、もぎたてのキュウリ何本かを神前にお供えし、拝んでから二本ばかりをいただいて来るというものでした。この日、ことしはじめてユカタが着られる喜びもあり、そこに子ども心にも夏を感じたものでした。なにより、境内に祭りの灯があかあかとともり、夜店がでると、もう祭り気分に酔うばかりだったものです。

  この日、神前にお供えするまでは、キュウリをどこの家でも食べないものだったといわれます。神前にお供えしてから、そのあとに食べるということに、季節とキュウリ、その食べ頃という食生活の安全に結びつけたくらしの英知のふかさにおどろかされます。

  寺町のこの「キュウリ神さん」のあったところは、いまはありません。大乗院といったものかどうかもわかりません。記憶をたどれば、たしかいまの「上宮幼稚園」(圓浄寺=中央町六番十四号)に近かったように思います。現市役所寄りだったかも知れません。あのいまわしい戦争に入ってから、「キュウリ神さん」のお祭りは途絶えてしまったようです。

  ところで、「祇園祭」といえば、すぐ頭にうかぶのが日本三大祭りのひとつ、山鉾と祇園囃しで有名な京都八坂神社の祇園会(ぎおんえ)。

  「…平安時代の初期に、疫病をなだめるために祀られたもので…疫病退散のため、六メートル余の鉾数十を立てて、祭礼をおこなったのが、今の山鉾の起源という。

  農村の祇園会は、もっと素朴な形のものが多く、旧六月十五日前後の水神祭りを、ふつう祇園会と言っている。

  …十六日は川へ行くことをきらう、胡瓜をこの日だけは食わぬという所も多い…」

(「日本大歳時記」《ぎおんえ》の項より)

  「祇園会」はもともと、農村での疫病神をなだめ、健康を願い祈る素朴な生活信仰をもとにした祭りといえるようです。人と神との接点に、水やキュウリを置いたのも人間の英知といえましょう。それに、六月十五日、十六日を祭日にしていることなども、京都と広く各地とを結ぶつながりのふかいことも考えさせられます。「旧」ということは一月遅れをさすのですから、うなづかされます。本格的に夏に入るというときです。

  お隣りのもと山内村黒沢では、家のだれかが旅行に出かける時など、朝の味噌汁にキュウリを入れて食べ、旅の無事息災を祈る風習は今も残されているようです。


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