山と川のある町 歴史散歩

第二章 季節と祭り

(3) 送り盆

  横手の「送り盆」について、まず、『雪の出羽路』(文政〈1818~30〉年代)に書かれたものから、みていくことにします(注=今、2007年《平成19年》からは、およそ二〇〇年前に書かれたもの。紀行家・菅江真澄の書く擬古文=雅文には、現代のわたしらは手を焼くしまつです。けど、約二〇〇年前の横手の送り盆のにぎわしさを彷彿させます)。

  ○ 孟蘭盆会(うらぼんえ)

・ 七月十六日は横手の送り盆とて、その賑わひ いふべうもあらぬ事になむ。あさくら川に渡る蛇ヶ崎の下に、藁もて作りたる ここらの舟どもを浮けならべ、艫(とも)、舳(へ)、舟笭(ふなどこ)、篷庳(ふなやかた)なンどに蝋燭の火をひし/\と燈(とも)したて、さま/\の形(もの)われ劣らじと餝立て(かざりたて)、またところ/\に花火をうちあげ、なか/\の見ものなりけり。是を見んとて、さはに入みちたる人は蛇が崎の橋の上にかしらをならべて、大江戸の両国橋に花火を見る画(え)のさまして、橋もしと/\とふみとヾろかして、そのにぎはしき事筆にえやは語るべき。

  「筆には書き尽くしがたい」といった褒めようです。現在の屋形舟とまったく違わない祭舟のようすが見えてくるようです。

  『横手郷土史』の《年中行事》の項によれば、

「…起源は…二百年ばかり以前の凶作に多数の餓死者を出したから、その死者の供養のために柳町で船を出したのが始めだといふ……柳町の船が後れて来た時は、先になった船は皆道を開いて之を通した…」

とあります。「送り盆」の起源について触れているようです。それで、その「二百年以前の凶作」の主なものを歴史年表から探してみると次のようです。

宝暦5亥年(1755)東北地方、領内凶作。安藤昌益の「自然真営道」成る。
 "12午年(1762)六月、横手大火。五五〇軒焼失。昌益、大館にて卒す。
天明3卯年(1783)諸国に大飢饉おこる。
天保4巳年(1833)奥羽・関東などで大飢饉。巳年のケガチ。

  宝暦の凶作から、約二五〇年、天明の大飢饉からは約二二〇年、天保の巳年のケガチと伝わる大飢饉は約一六〇年前になります。だから、「二百年ばかり前」というのは、ある特定の年とするよりは、やはり、 年表にあげられたこれらの年を指すといえるでしょう。なかでも天保の年は《巳年のケガチ》と特別に呼ばれ、今でも恐れられているといえるほどです。

  この《巳年のケガチ》を、まず天候でみると次のようです。

「四月五日頃から五月廿五日まで降雨殆どなかった。五月末頃から冷気勝ちの天候が続き、土用中は連日寒冷で単衣(ひとえ)を着るような日は殆どなく、田の草取りは、わらを焚き綿入れを着て作業しなければならなかった……」

〔羽後町の古文書〕(『秋田県史』より)

  隣りのもと山内村筏の古文書でも、

「一、巳三月中頃より五月廿五日迄、大日照り也。…夏の土用中六七八月長雨ニテ大ニ寒ヘル わだ入着物ニテ大ニさむぐ御座候。いねハ秋ひがんの内にさかり納ハなし。せみのはらごどぐなり申候故 大飢饉入難渋仕候」

(『三内村史』より)

  とあります。この未曾有の天災は、横手でも同じことで、次の記録を伝えます。伊沢武治氏所蔵《凶作万日記控》がそれです。

  天保三年は五、六分の作で米相場一貫二百文位(一升につき)より段々高値となった。天保四年には三月から五月上旬まで上々の天気で日枯れ、五月十日過ぎから七月まで天気な日が稀れで連日の大雨、七月初め大風雨、寒きこと限りなく、昼は袷、夜は綿入れ布団でいた。八月一日より天気、十日ごろ稲も出揃ったが稔らず、稲一束から三、四、五粒位。米高値となり、古米四貫二、三百文にまでなった。伝馬所から手造(濁酒)法度の触れが出た。稲刈時分の九月二十七日晩から翌明け方まで大雪、十月五、六日また雪ふり、稲は田に沢山あり、雪消え上々天気となり稲揚げ盛んとなった。十月二十六日に大地震、大風あり、蔵も破損が少なくなかった。十一月五日雪降り、寒中は至って雪不足。

(『新横手沿革史』中巻より)

  いったい何で食いつないだものでしょう。同じもと山内村の古文書では、〈巳年の秋から一日に一度あるいは二日に一度の食事しかとれず〉のあとに次のように記述さています。

「一、極窮人飯料ハ わらすべ 松の皮 よもぎ 吹きかざは ひるこの葉 或いは 弥こみ斗リヘ 根花入飯料仕候 午年中大麦挽粉喰候節 皆々餓死多ク有リ……」

  大変なものを食べたことがわかります。食べ物といえないようなものをただ腹のなかへ落とし込むだけの、目に余る餓鬼道そのものです。文中の《根花》は、わらびの根からとったデンプン粉を指します。山の形が変わるほど、わらびの根は掘り尽くされたものと伝えられ、デンプン粉を採るための木船は、ハリに上げられて最近まであったものといわれます。

  隣り岩手県の『湯田町史』は、それこそ《飢饉史》(ケガチ史)ともいわれるほどで、

  「…天保五年、去る年の大飢饉にて、一統食べ物なし、持ち合いのある者稀なり 夏頃餓死する者多し 正二月雪を掘りて根クゾ ミヅの根を掘り 松の皮はぎとってこしらえて食う 雪消え次第山川へ入り込み 草木の根皮取り集めて食い命助かり…」

と、そのすさまじさに戦慄させられます。

  山内村文書には、横手町での飢餓状態でなければ考えられない、異常な物価値上がりなども記録されていますが、ここでは最も悲惨な餓死者の記録にいそぎます。横手の記録がないので推測するしかありませんが、山内村筏分では次のようです。(ひと月ごとに死亡人名に記録があり、それをまとめると)

筏村分   惣〆 六拾九人
        内 弐人病人除く
        〆 六十七人
        内 弐拾人 流行病ニテ死ス
        〆 四十七人 餓死人

  なんと、ひとつの地区(村)でこれほどです。年別では、天保四年-九人、同五年-六〇人と、天保四(巳)年の次の年が最も悲惨です。ひら場の町への欠落ちなどを含めたら、実数はとても四十七人どころではなかったと考えられます。

  《夏頃餓死する者多し》は、やはり横手でも同じだったと推測されますが、その実数については不明です。そして七、八月は盆の月です。迎え火を焚いたり、お墓まいりをしたりといった身内の霊を慰める行事のうえに、餓死者の霊を慰め、またはるか西方浄土へその霊を送るという行為は、飢饉のすさまじさが土台となってのことだったに違いありません。蛇の崎橋を渡り、馬場崎川原へ藁船でおくるという、その地理的条件の一番目であつたもと柳町が初めだと言われ、後年、ほかの町の藁船が蛇の崎橋に早く着いたとしても、柳町の藁船に敬意をし、一番先の順番をゆずるのがならわしになっているのもうなずかれます。

  送り火を焚く習わしにならい、《送り盆》という名付けもすなおにうなずかれるものです。《送り盆祭り》の原点は、そこにあったと考えられていいでしょう。

  史実でみた飢饉の表に、『安藤昌益』(あんどうしょうえき)〈元禄一六=1703~宝暦一二=1762〉の名が出ています。昌益は、南部、また秋田での飢饉の現実から、すぐれた思想を編み出した人です。出生地は秋田郡二井田(現大館市二井田)とみられるが確定的ではないとされますが、南部八戸で町医者をしていたといわれます。支配階級としての武士は、社会のあり方を根本的にとらえ直すことなど出来ずにいるとき、医者としての昌益は、時代のさしだす飢饉の現実から徹底した思索を生み出していくのです。

  「…『自然真営道』によると、彼の思想は“農耕して食を得る者、天道を歩む者”で、士・工・商は道に反するとして否定し、宗教についても、説教者は、ただ穀つぶしで人道を迷わすと否定した。」

(〔図説・秋田県の歴史〕より)

  時代のさしだす現実を直視した、このすぐれた思想家を秋田が生んだことは誇ってよいことでしょう。

  さて、もう一度、横手にもどります。よっく探してみたら、横手にも飢饉にまつわる史実がありました。昭和53年(1978)、「秋田魁新報」に出ていました。大見出しは次のようです。

  天明飢饉の教訓を今に
     二〇〇年前の大麦俵、代々受継ぐ
     〈横手市安田 平塚長治さん・六九才〉


  平塚さんが祖父から聞いた話では、天明の大凶作の際、人々は自在かぎにこびりついたかすを食べたり、なわを煎じて飲むなどの地獄絵図が繰り広げられた。辛うじて命をつないだ平塚さんの先祖が、数年後、子孫のために非常用食料を確保し、「大飢饉に見舞われたら、この俵とかますを開けろ。それ以外の時は開けてはならない」と子孫たちに伝えたものという…。

  やはり、二〇〇年前の横手(当時、栄村字安田)の飢饉が今に生きていました。ケガチを生き延びた人たちの俵に託した思いを黒ずんだ大麦は問いかけるというものです。この問いかけは貴重です。

  《送り盆》の歴史的な誕生に秘められた、飢饉への思いの数々、そのひとつとして、平塚さんの大麦の俵・かますなどの展示をふくめたたとえば〔郷土歴史館〕があっていいのでないでしょうか。飽食の時代であってみれば、ケガチを考えることの意味はふかいといえます。


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