第三章 ものと道と(1) 羽州街道① 横手高校裏のあたり 横手の町を南北に抜ける昔の街道名です。 〔一六八一年(元和元年)の『領中大小道程帳』(秋田県所蔵)によると、新庄領金山村を経て領境院内杉峠に至り…長走境矢立峠から津軽領碇関に出る路程で、院内杉峠から長走矢立峠まで六三里四丁二三間…江戸の往来や領内経済の発展、支配体制の確立上から、一里塚を設け、また街道の主要町村に宿駅を、南北の領界には関所が設置された。この街道の欠点は、橋の整備が悪く、船渡し、徒(かち)渡しが多いことであった。〕 (「秋田大百科事典」より) 宿駅は、秋田領内に入ると、まず、下院内-湯沢町-岩崎村-横手町-金沢村-六郷村-大曲村……とつづきます。この羽州街道が、今の国道13号線のもとの姿だったわけです。 〔…道路西側に、二ツ石がある。正保四年(1647)の「出羽一国絵図」には平鹿郡と仙北郡(当時は山本郡)の境界線をはさんで二ツ石が置かれてあり、この二ツ石が郡境を示したものであることが知れる。(略)二ツ石のあるあたり、街道の東側に長径五〇〇メートルもある蛭藻沼がある。(略)二ツ石を過ぎて五〇〇メートルほど行くと、羽州街道と分かれて小高い丘陵に登ることになる。この分岐点に現在家が建っているが丘陵は南半分が大きく削られて羽州街道は消滅してしまっている。かつてはあった丘の上を行き、やヽ斜めに下りて、杉沢と旧国道を結ぶ道に出ると、少し東へ行き、そこから田地を横切り杉沢川を渡って長坂といわれる台地へ上り、七日市市営住宅へ向かう。(略)長坂から七日市住宅へ行く途中に墓地があり、この墓地からは旧街道の痕跡が残る。墓地までは街道は失われ、畑地となっている。七日市住宅で横手高校裏手の道路に合流する。この横手高校の裏道を南へ下り、吉沢川をまたぎ、新坂を越えると横手城下の足軽町へ入る〕 長々と引用しましたが、横手高校裏から鶴巻を通り、大鳥居山を越え新坂、新町へと通じた旧街道に、やはり藩政期の面影を感じます。ことに高校裏山の一角に建つ詩碑。刻まれた詩の作者は榎本武揚(えのもとたけあき)。明治二年六月上旬、函館・五稜郭落城のあと唐丸駕寵で江戸へ護送、その途中、鳥海山を望んでの《奥羽道中》七言絶句といわれるものです。 奥羽道中 榎本武揚 〔壮図一蹶気猶豪〕の武揚の気概あふるる詩句はさすがです。羽州路にそびえる白雪の鳥海山はなんとも象徴的です。その昔、羽州街道はこうもうたわれたわけです。 ② 一里塚 羽州街道から切って離せないものに一里塚と松並木があります。この項では主に一里塚をさぐってみます。下図に示したのが『道中記』(天保十一年〈1840〉秋田藩中・進藤喜内の記したもの。十文字町芳賀家文書より)の部分図で、湯沢-横手-金沢間です。・=一里塚、●=川渡し、又ハ川ナキ印、▲=郡境。または御立寄り印です。 まず、古内、次は大橋村。大屋村をすぎて〈畑中ニ有〉、次は、〈横手上入口ニ有〉。町中を過ぎて〈山中坂上ニ有〉、金沢に入って〈金沢町ニ有〉です。 …(横手から入って)持田村に入る手前に帳(とばり)の清水と一里塚がある。帳の清水は『雪の出羽路』に「雎鳩(ミサゴ)の清水」とあり、「よき寒泉なれば水無月の照りはたたくころ往来人の渇をとどめ、喉うるほへるよき清水なり」とある。今は美佐古という地名で残っている。…『雪の出羽路』には、この雎鳩(ミサゴ)の清水とともに一里塚が描かれている。 美佐古に一里塚のあったことが記されているのですが、いまはあとかたもないようです。しかし、「昭和十三年(1938)頃は十五坪の面積で長方形をなして盛土がしてあり、栗の木が植えてあった」と同書にあります。清水の湧く一里塚は旅人をどんなに喜ばせたことでしょう。近くに豆腐屋さんのあったこともうなづかれるものがあります。 『道中記』によれば〈蛇ノ崎川有、三十間ノ川橋有〉とありますが、おかしいことに、次にすぐ郡境を記しているのです。これは『道中記』を記した人の取り違えのように思われます。郡境“二ツ石”は蛭藻沼が近いし、もう三貫堰地内です。ここからは金沢町に入るだけで平坦な道ですから、〈・山中坂上ニ有〉という一里塚の記載はおかしいのです。地図でみても鍛冶町の一里塚からして遠すぎて不自然です。これは、まず横手を出て、次に〈山中坂上ニ〉一里塚があり(前項“羽州街道概念図”でもわかる)、そして御所野を経て郡境二ツ石となるわけです。 現国道から分かれて丘陵部に入って間もなく切り崩された丘陵の頂上部に一里塚があった。今はその面影さえないが、天和元年(1681)の『御領内道乗駄賃定』には、「坂上塚、蛇塚、杉野目村と杉沢村境」。また、『江都道中記』に「山中坂ノ上ニ在、左ケヤキ、右木ナシ」とある。昭和十三年(1938)の『秋田藩の林野制度-一里塚と喉樹』には、「大きさが四坪と六坪で円形をなしていて杉楢混成」とあり、藩政期の樹木が更新されていることがわかる。『秋田県土木史論』に「昔ハ戸村十太夫家来、此所マデ御先立ニテ藩公ヲ送迎セル縁ノ地、山中坂ノ上ニ塚アリシモ今ハ国道ヲ遥カニ離レ、横手中学校ノ裏手ニナリ、少シ前マデハ一、二本アリシ並木ノ松ノミ淋シク立チシ跡アリケルモ、今ハ空シク名ノミ残レル」とある。また一里塚から現国道を隔てた所に、一里塚の家(当主高橋泰治)と称する家がある。 (『歴史の道報告・南部羽州街道』より) 次の〈・金沢町ニ有〉の一里塚は、金沢の柵入り口を過ぎてまもなく、メッコカジカで有名な厨川のちょっと手前だったようです。 『江都道中記』に「一里塚村中に在 右サクラ 左ウルシ」とあり、また、『…一里塚と喉樹』に、昭和十三年(1938)「八坪と七坪の方形で、元は五尺の盛土をしていたが、今は平坦であり、樹木もなく、砂利置場となっている」と記録されている。今は痕跡もなし。 (同書) 街道と一里塚は、切って切り離せないかかわりをもっていたのですが、いまは古い記録が伝えるだけで、わたしたちからは遠いものになってしまいました。横手の町には見られないのですが、六郷を過ぎてまもなくの13号線わきに一里塚の痕跡をとどめている一本の木があります。案内板も立っているようです。 ③ 二つ石 市内御所野と三貫堰のほぼ中間、むかし羽州街道とよばれていた(いま国道13号線)、その道の西側に「二つ石」があります。道路工事のために現在地に移動、もとは平鹿郡と仙北郡との郡境。そのための目印であったものでしょう。正保四年(1647)の「出羽一国絵図」に、すでに郡境として記載されています。あの関ヶ原の合戦から約五〇年、佐竹氏が秋田入りしてから羽州街道の整備も進められていたころでしょうか。 ○ 二つ石 学のあった真澄は、かんじんの郡境のことについてはひとことも触れていません。村の人も郡境のことは話さなかったからでしょうか。それに、真澄は「つぶて石」をもったいぶった古語のかたちの「たぶて石」と表題に使うなど、おもしろいです。 |
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