山と川のある町 歴史散歩

第三章 ものと道と

(2) 平和街道

  横手から南部(岩手県)へ抜ける今の国道「107号線」の古い道筋が平和街道です。この平和街道の誕生は新しく、明治十三年(1880)着工、同十四年完成、《(両方の)郡名の首字をとり、(平鹿の平、和賀の和で)平和街道と名づく》と県史にあります。この項では、古い道筋をさらにさかのぼって記録にあらわれる街道の古い姿をさぐってみることにします。

  『湯田町史』 (岩手県和賀郡湯田町)に、

…あとで秀衡街道と名づけられた、平泉-岩崎(和賀町)-山口(同町)-仙人峠を越えて湯田に入り、陸奥と出羽の国境を越えて、金沢柵-払田柵(仙北郡仙北町)に至る道がある。今では古老が口にする道路名である。…国ざかいは、巣郷-上黒沢-南郷-筏-相野々-金沢と通ったものであろうか。

…秀衡街道とよばれるこの街道は、秋田-西和賀-平泉と通じる“黄金の道”でもあった。岩手県史にも述べられているように、和賀郡西部は金の産地であった。伝説によれば、和賀仙人付近の赤沢には砂金とりの昔話が伝えられ、吉の沢は金売り吉次の隠し金山であったと伝えられている。

  また邦内郷村史には、畝倉山(卯根倉山)、明戸山(悪戸山)、大荒沢山は「秀衡金を掘る所有り、秀衡堀場と称す。金商橘次(吉次)末春、金を採掘せる所有り。堀の内と名づくる也。是れ山中皆蜂巣の如し。」と書かれている。…山北の清原氏も金を沢山持っていたと伝えられているので、清原街道はやはり黄金を運ぶ道だったのだろう。

  『山内村史』にも、「秀衡街道の伝説は少なからぬ高齢者の記憶に残っていた。それは本村における聞きとり調査でも確認(昭和五四年。黒沢地区)している」といいます。

  金沢柵が攻め落とされ、大鳥居柵も同じ運命にさらされたのですが、勝者・藤原清衡(平泉)の三男正衡によって大鳥居柵が復旧され、堰根柵とよばれたとされます。この正衡が明永の地に明永山大儀寺を創建(寛治年中=1087~93)、今の正平寺の前身です。正平寺の本尊は「清衡守」(きよひらのかみ)と刻字された十一面観音菩薩で、清衡が正衡に授けた持仏といわれています。この清衡の孫が秀衡ですから、平泉と関根柵(横手)を結ぶ道すじは、当然整備もあり、のちにそれこそ秀衡街道と呼ばれるようになったものでしょう。

  『山内村史』によれば、次の[邦内郷村志](享和年間=1801~03)の古文書をあげています。少し難解ですが引用してみます。

  白木嶺此山以東西 表裏為両国界隈 以上尾為往還也 東嶺下南部関所称越中畑 西嶺下有佐竹関所小松川 是奥羽道也 然其険阻不容易 又従是南巣郷有古往来道 名秀衡街道 最容易也 然其甚迂遠 故後世開 白木嶺道云 (略)

  「右の資料によると、白木嶺道(ここでは奥羽道といっている)より先に、それと経路の異なる(南に迂回する)秀衡街道があったというのである。そして、古い秀衡街道のほうは往来がたやすいものの遠回りだから、のちに険しい尾根を通る白木嶺道が開かれたのだと説明している。

…その経路は、黒沢から南郷へ南下して立沢目川(横手川の古名)流域を下る、南郷-筏-土渕-大沢-横手という経路…これらの集落に、それぞれ古道の形跡がのこっている」として次に筏の筏隊山神社の由未を推しながら、秀衡街道の存在へ迫っています。

  黄金の道=秀衡街道の道すじに筏隊神社(仙人権現社)があることについて、『山内村史』は次のように述べています。

  『雪の出羽路』に「そもそも此仙人権現社は陸奥国和賀ノ郡の仙人峠に座し御神形を御醍醐天皇の御代に此平鹿郡筏邑に遷し奉るならむ」とあり、岩手県和賀郡の仙人峠に今も祀られている《岐神社》の分霊を祀った古社といわれる。

  この神は交通上の要地に祀られる道の神で、道祖神などより古い神ということである。そして、この《岐神社》こそ藤原秀衡が創建した由緒を伝える神社である。このことを『湯田町史』では「奥羽の交通上の要路である秀衡街道を、国境の両側でしっかり護ってもらおうとする願いがこめられているのであろう」と的確に述べている。

  伝承・伝説のみでは片付けられない「黄金の道」の存在が、確かに語られています。険阻な道であったのですが、横手と平泉を結ぶ重要な道すじであったことがわかります。

  さらに、「黄金の道」を裏付ける、その“黄金”そのものについてです。『山内村史』では『県史』所収の「秋田領内諸金山箇所年数帳」(江戸末期)をひいて、

  古来から明らかに本村に属した鉱山を次のとおり列挙している。武道沢古金山(山内村平野沢武道)、五枚沢金山(同武道)、金掘沢古金山(同)、大台鳥打長根古金山(同外山)、板平見立金山(同)、金掘沢金山(同)、高松倉古金山(同平野沢)を証左しています。

  もとの福万に近い黒沼の伝説に、お礼に沼の主が“金”を渡す話があるほどです。この横手にも「金沢」があり、その字名に“金洗沢”があったりするほどです。古代、平泉と横手(関根柵)を結ぶ政治的にも重要な道であったほかに、「黄金の道」でもあったことはうなづかれましょう。

  なお、さらにずっとくだって江戸時代も後期、この道は、今度は「鉄の道」でもあったようです。そこをすこしみてみます。

  小松川口(もと山内村)、大松川口(同)に番所が置かれて、旅人・物資の出入りをきびしく監視したといわれます。小松川番所は白木峠越えの難所の口、南部側は越中畑番所でした。横手・秋田へ入る物資は、まず、越中畑番所で調べられます。「鉄の道」をあとづける次の資料を「山内村史」は載せています。

  安政二年(1855)、八戸(八戸藩、現岩手県八戸市)の豪商石橋徳右衛門が、八戸産の鉄を陸路越中畑を通過して秋田領へ運送する際の盛岡藩領通過の許可証(留置)がある(岩手県立博物館蔵)。南部境口としての越中畑番所にかかわる、その「御証文留」のなかの「覚」一枚を次に示す。

  覚         葛巻附出

一 延鉄弐箇附拾壱駄    但壱駄正味三拾貫入

  右之通秋田払椛ノ木ヨリ越中畑迄 御証文奉願上候

    正月廿三日         石山徳右衛門

  御掛様  葛巻   又兵衛払
        秋田横手  平吉行   穐田払印

  横手平吉という人の名がみえます。どこの町のどんな人だつたのでしょうか。“延鉄”についてはわからないですが、“延鉄”(のべがね)は〈鍛えて平らに延ばした金属〉と辞書にでているので、およその意味はわかるのではないでしょうか。その年の「覚」をまとめると、一月から八月まで三五五駄にもなります。また、大松川口の番所記録にも克明に記録されています。まとめると文久三年(1863)=鉄二一六箇、元治元年(1864)=一二六箇などがみえます。鉄壱箇を壱駄鉄三拾貫と同じとみて、かなりの鉄移入のあったことがわかります。

  白木峠越えは難所ではあっても(また、大松川口も)、まさしく「鉄の道」でもあったといえましょう。

  険阻な道ではあつたし、その上に藩政期には番所が設けられるなど、人、物の出入りの規制がきびしく行われます。この規制のきびしさを伝える「制札」と「往来証文」について『山内村史』は次のように述べています。

御番所制札  岩手(南部)へ抜けるもともとの道は、黒沢を通る道でしたが、天和の頃(1681~83)、南部藩の都合によって越中畑口にかわったことで、主道が小松川口になったようです。その小松川番所にあった今も残る「制札」があります(分厚い板に墨書されたもの。黒沢・森田家にも現存)。

  

男女、二ツ刀、二ツ脇差、表具類、馬、牛、鷹、米、大豆、材木、漆、臘、油、鉄、銅、熊皮、馬皮、牛皮、綿、紫、麻糸、硫黄、黄連、□□、丹云、塩、たばこ

右之通証拠なくして他領江 一切不可出之者也

宝暦十一年四月 日
    今 宮 大 学 (花押)

  なんといっても人の出入りが真っ先に規制されています。他領への移動を「証拠なくして」は、いっさい認めなかったのです。物資についても貴重なものの移動はきびしく規制しています。

  たとえば、人の移動のための例として、横手・浄光寺から出された「寺手形」、すなわち「往来証文」を資料として載せています(これは平山藤一氏所蔵=現秋田市住)。

往来証文ノ事

一 此の藤四郎と申す者 代々浄土真宗にて拙家檀家に紛れ御座無く候 今般京都本願寺参詣の為罷り登り 諸国御関所並び御番所 相違無く御通し申し上く可く候 万一此の者何国にて病気など仕り候節は御国法を以て御□(葬カ)仕舞い申し上げ可く候 その為往来証文一筆件の如し
  文政四年巳正月  出羽秋田領平鹿郡
                   浄土真宗  浄光寺
  諸国御関所 御役人中
         御番所 御役人中

  文政四年(1821)、平山氏(もと筏村)の先祖が旅に持参したもの。よく残されていたものです。なにか、命がけと言うか、たいへんな旅であったことがわかります。とにかく、他領へ入るということのたいへんさ、きびしさのあったことがわかります。

  もうひとつ、主道ではなかった大松川口(福万)番所(黒沢家・現市内三枚橋在住)の境口記録として、「出(入)旅人取調帳」十二冊、「出(人)御役銭取立帳」八冊、「出入無役物取調帳」七冊などの貴重な資料が残されています(安政六年=1859~元治元年=1864)の六年間のもの)。この通行人と、物資の出入りの概要を『山内村史』から拾うと次のようです。

まず、通行人を安政六年に例をとると、
  〔南部へ出た人が年聞二四六人に対して、秋田領へ入った旅人は一一四三人。この入旅人の日帰りが七七人、差し引き一〇六六人のうち他国者五〇八人、残りの五五八人は秋田領の者と考えられる〕
  といいます。こうした傾向はどの年代でも同じだといいます。

物資の動きは次のようです。
  〔年間を通じて毎月出て行く物資は、木綿、塩、身欠ニシンなどである。塩、身欠にしんは十二月・一月の厳冬でも、大松川口の萱峠を越えて南部領左草村へ出ている…季節食品は鱒、鰰、練(かど)、鰯、干鰯、塩辛、天草…生活用具の三ッ椀、菅笠、のし紙、古綿などは秋田産とは考えられない。日本海から船で川上りに入り、峠を越え…〕
  と考察しています。

入物資はどうでしょう。
  〔年間を通じて麻糸が最も多い…季節に関係なく入ってくる物は根花、馬の皮、布、玉藍、箒など〕
  とまとめています。入物資の品目は出物資のそれよりも二倍近いとされています。

  入物資、出物資の概要をまとめてみたものです。厳冬のとき、福万・外山を越え、萱峠を越えて南部領左草村へと物資の移動のあったということは、ひとつの驚きです。それに秋田産のものとは限らない物資もあるのですから。

  出物資の筆頭は木綿です。これが、横手木綿商人最上忠右衛門家にかかわるといわれます。横手の産物として東北一円に横手木綿の名を馳せます。幕末から明治期にかけて、峠を越えていく「木綿の道」でもあったといえます。(*「横手木綿」次項参照)


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