山と川のある町 歴史散歩

第三章 ものと道と

(4) 横手柿

  愛宕山の下、羽黒、上内町あたりの屋敷町を歩くと、今年もみごとに色づいた柿がたわわに実り、人待ち顔に出迎えてくれます。これが横手柿です。雪の日の、雪をかぶった柿の朱の色は、横手の昔ながらの風情のひとつでした。この横手柿は、実は渋柿で、別名さわし柿ともいわれます。お湯でさわさないと食べられない柿なのです。でも、鈴なりに実ったなかには甘柿も稀にみられ、それをみつけて噛るのがなによりの楽しみでもあったものです。石を投げてとるのです。もちろん、学校の行き帰りの道でしたが。石を投げてとる柿取りの名人は何人もいたものでした。

  この横手柿の歴史がなかなかおもしろいのです。『新・横手郷土史』(昭和八年=1932刊)に書かれてあるのを要約すると次のようになります。

  今から二百三、四十年前(元禄期=1688~1703)頃、横手城代戸村公の家中、大瀬宇左衛門(現・蛇ノ崎町=もと馬場崎町、大瀬覚真氏の五代の祖)が、江戸参勤の途中(茨城県らしい)珍しい柿のあるのをみつけ、立ち寄って“つぎ穂”を懇望。翌年、春四月ごろ、二種の“つぎ穂”を求めて帰ったという。六~七年して実がつき、一種は本家大瀬伊右衛門に分け、一種は自宅に植え付けたのが始まりといわれる。本家伊右衛門の柿はさわし柿、宇左衛門の柿は熟し柿であったから、それぞれ“伊宇衛門柿”、“宇左衛門柿”とよばれるようになったと伝えられている。

  当時の士族、なかでも下級士族にとっては、生活上・経済上にも、この柿は意味をもったに違いない。次第に広まって行った理由もそこにあったと思われます。“熟し柿”の宇左衛門柿は天下一品と激賞はされたが貯蔵運搬には不便、したがって次第にその数が減少、かわって“さわし柿”の伊右衛門柿が増えていったようです。なお、『同書』に“柿しらべ”の次の調査があります。

本郷方面一五〇本   下内町方面三五〇本
安田・山崎方面三五〇本   新坂・明永方面二五〇本
上内町方面三五〇本   計一四五〇本

  昭和の始め頃の調査かと思われます。現在の実数とくらべてみたいものです。おそらく少なくなってしまったに違いありません。

  昭和十年代、横手男子小学校四年生が郷土教育の一環として、「横手の柿」を学習したことがあります。今でいう社会科といったところでしょうか。生徒六〇人ほどが町内別に手分けして、柿の木を調べ上げました。その記録が手もとにないのが残念です。受持ちの先生といっしょに馬場崎町(現・蛇ノ崎町)の“熟し柿(宇左衛門柿)”の老木を見学に行った記憶があります。この“横手柿”の学習の総しめくくりに、受持ちの先生が、大町の菓子店・木村屋の柿羊養を食べさせてくれたのです。なにしろ、一学級六〇人ほどの人数でしたから、柿羊葵を小さく、うすく切って、それをひとりひとりが貰い、教室で食べた記憶が鮮明にやきついています。しかも、その柿羊葵を包んだ銀色の包装紙函の輝きといっしょにです。

  この横手名産柿羊羹は、木村屋を開業された大森町出身の山下九助氏の創製といわれます。しかも、銀色に輝く包装紙函、それにオブラートの発明も山下九助さんの手によるものといわれます。

  今、柿をもぐ人手がないとか、さわすのがめんどうでとかと、横手柿の評判は今一つといったところでしょうか。渋柿を潰物に入れて味つけ・色つけなどの工夫もみられるのですが、「柿羊羹」を抜くような傑出した柿製品はまだ産まれていないようです。

  一本の柿の木をじっとみつめ、創造のハネをはばたかせた山下九助氏の熱い思いにロマンを感じるのですが、それにしても現代はなんとも忙しい。つくらされた忙しさのなかで足もとをみつめることなどできないでいるのですから、一本の柿の木をみあげる余裕すら持てないのは、なんともさみしいばかりといえます。柿の木も、きっとさみしいに違いありません。


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