山と川のある町 歴史散歩

第三章 ものと道と

(5) 中山人形

  旧の三月三日、ひと月遅れの「お雛さん」(雛祭り)は、いまも昔も楽しい年中行事のひとつ。雛を飾ってもらう女の子の喜びはもちろん、昔は男の子にもそれなりの出番があって楽しいものでした。わたしの家 では、すぐ近くの山の沢にいっての沢ガニとりが、「お雛さん」の日の近い前ぶれのようなものでしたから、母にいわれると兄弟うち揃って出かけたものです。ヒョイと沢の石をどかすと沢ガニがいて、わいわい取ったものです。砂糖醤油で煮ころがされたカニの赤さが鮮明に脳裏に焼きついています。雛壇を前にして食べると、カリカリとおいしい音がしたものでした。

  さて、わたしの家の雛壇に飾られるのは、土雛でした。それこそ、土のにおいそのままといえそうな素朴なお雛さんたち……雛壇のそのなかには兵隊雛もひとつ。消すことのできない、この国の時代がのぞくというものです。この土雛の底には穴が見え、中はがらんどうです。この土雛が中山人形だと教えられておどろいたのは、大きくなってからのことです。中山人形の中山は、横手のじき西隣り、平鹿町上吉田間内字中山、この地で創始されたといわれます。

  この中山人形の歴史を『秋田大百科事典』から拾うと次のようです。

○ 中山人形 なかやまにんぎょう

  平鹿郡平鹿町中山で、明治初期に陶工の余技から郷土玩具として作り出された人形。九州鍋島藩(佐賀県)の陶工野田卯吉が、盛岡南部藩の保護で山陰焼を作成したが、天保の大飢饉で廃業。津軽、秋田と回り、湯沢市松岡窯で磁器を焼くなどしたが、陶土を求めて中山に落ち着いた。その後、養子金太郎の妻ヨシが手内職に宇吉から粘土細工を習い、当時の押絵人形や串姉コ人形からヒントを得て風俗人形を売り出し、中山人形と呼ばれて人気を得たとつたえられている……

  小学校低学年の頃、中山へ遠足に行った記憶があります。窯などを見た記憶のないのが残念ですが、なだらかな丘陵を散策した思い出は残っています。こうした丘陵こそ、窯には適した土地だったものでしょう。

  なお、『秋田民俗語彙事典』の“中山焼き”の項には次の記述もみられます。

  慶応四年(1868)に横手市かぢ町の太田五兵衛と四日町辻貫、瀬戸物商の山田新之助が出資して角館の白岩から木元久吉を招いて(この)中山に築窯した。瓶、スリ鉢、煉瓦などを焼いたのが最初。中山焼には宇吉窯と久吉窯の二つがある。明治五年頃に久吉窯が退山したため、横手市の二坂条吉が引き受け、湯沢市山田松岡にいた宇吉が継ぐことになった。

  と宇吉の創始までのいきさつを述べています。そして、さきの『秋田大百科事典』は、現況を次のように結んでいます。

  …三代目の当主義一は仙台で修行、堤人形の技術を学ぶなどして伝統のものに一層の改良を加え、素朴な伝統性に、洗練された色彩を調和させて、格調ある作品に仕立てた。型おこしの素焼きに手描きの彩色。天神、お雛様、馬乗り鎮台などの伝統人形のほか、郷土の行事を表現する かまくら、竿灯、ぼんでんやエトの土鈴などの新作人形を製作している。現在は横手市に住んで、後継者である昭太、浩三と父子三人が製作に専念している。横手人形とも称されている。

  母が買い求めた土雛一式は、たち町(朝市)でだったといいます。子だくさんで貧しい家計のやりくりのなか、それでも買い求めた母の心情のあたたかさ。ことしも雛壇の中山人形は、落ち着いた素朴さ、人なつっこいぬくもりを感じさせてくれます。郷土が誇る民俗工芸のひとつと目をほそめるのですが、それにしてもお雛さんの行事にかかわって、あの沢ガニのいなくなってしまった郷土にはなにやらさびしさを感じてしまうのですが。


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