第一章 御嶽山と盆地
(1) 御嶽山
奥羽山脈の脊梁(せきりょう/せぼね)に、横手盆地を見守るかのように標高七四四メートルの御嶽山があります。地番はもと山内村なのですが、横手と隣接し、広く盆地の人たちの崇敬篤かった山です。御嶽山は、そのまま読めば「みたけさん」なのですが、盆地の人たちはだれもが、そのうえにもうひとつ「お」をおくって、「お+みたけさん」とていねいに呼びます。「おんたけさん」と呼ぶ地方もあるようですから、その「おん」からの「お」なのかも知れません。いずれにしてもそれほどたいせつにされてきた神の山であったといえます。
祭神の名は「塩湯彦」(しおゆひこ)、だから、御嶽山塩湯彦神社とあがめられ、その歴史は古く、横手盆地の開拓と発展に深いかかわりをもっています。
古代の盆地の開拓のはじまりを伝える古記録にそれがみえます。
塩湯彦権現ハ明永長者ノ弟ニシテ御実号明保長者、其ノ元祖ハ奥陸(陸奥 むつ)ノ塩竈大明神ノ御末葉後胤、両長者奥陸(陸奥)ヨリ此ノ地ニ来ル
(「三熊野社別当華厳院古記」〈『雪の出羽路』所収〉)
明永長者(兄)、明保長者(弟=塩湯彦)の兄弟名ではじまるこの古記録は、横手盆地の開拓を語るのですが、御嶽への山を越えてきたことを示唆します。つまり、兄弟長者の出身は陸奥であり、塩竈(現・宮城県塩釜市)に祀られてある塩竈大明神の子孫であることをいっているのですから、東から山を越えて盆地へ入った開拓のリーダーであったことをいうわけです(この塩竈大明神の祭神は“志波彦=シハ彦”、御嶽山祭神の“塩湯彦”の“シオ”と、“シハ”とは古くはおなじ塩をいうようですから、関係の深さをみることができます)。
さらにこの古記録は鳥海干拓伝説(とりのうみかんたくでんせつ)を伝えます。
此ノ鳥海(とりのうみ)の湖水御一見のところ、御不例(ごふれい=貴人の病むこと)にて谷沢の柴屋(柴葺きの家)に止宿(宿泊すること)ある。其ノ家の娘御看病、御宮仕え、やがて御快気におもむく。かくて主人(の)其ノ湖水に舟を浮かべて魚を捕る風景御遊覧ある。長者、谷屋(の主人)に云うには、北方の水戸に至るところ、此ノ湖水の下ノ口堀切り、大海へ流れ落とし、彼ノ湖水を平地に作るべし。田畑開発せんとて御皈(帰)りのとき谷屋の娘に長者、小袖を給う(此ノ地今いう袖山〈外山〉なり)……
(「同書」。おなじく『雪の出羽路』所収)
これが有名な「鳥海(とりのうみ)干拓伝説」のはじまりの部分です(原文は難しい文体なので、わかりやすいように書き直したもの)。ここで語られていることは、東から(陸奥から)やってきた、のちに長者となる人たちの盆地開拓の原点を叙事詩的にうたいあげていることです。塩湯彦はこの伝説の主人公のひとりであり、やがて盆地開拓の祖神となるわけです。現実に鍬をふり、土に汗を流し、開拓の辛苦に耐えた人たち、そのリーダーが長者となったことでしょうし、自分たちで開いた土地を守る在地神・産土神として崇拝されていったものでしょう。なにより稲作にとって水は、絶対的な条件のひとつだったでしょうから、高い山は水のみなもととしての神秘性と合致もして…。
横手地方に「長者」の名のつくところ、また、「小屋」の名のつくところの多いのも、盆地の開拓の歴史をあとづけます。さきの古記録にも次の記述がみられます。
…万徳長者、地福長者、耕作始めに四十八の小屋を置ク(今に至りて村々に小屋といふ字処あり)今横手に高台長者森、糠塚森など、此のあたり長者といふ処いと多し。……
御嶽山への登り口・一の坂の近くに、「長者森」の高台がみられ、「糠塚」の名をもつ字所もすぐ近くです。盆地開拓のそのはじまりを杉沢・吉沢あたりと推測されるようです。
また、「新横手沿革史」では、朝倉地区の恵保小屋・北小屋、さらに旭地区の助太郎小屋・六郎小屋、それに境町地区の小次郎小屋・太郎小屋・大蔵小屋…などを記録しています。なんとも小屋地名の多いのがわかります。伝承をうらづけているともいえましょう。
古記録は地域の伝承を、後代の人がまとめたものなのですが、地域がどうかたられてきたのかを知る手掛かりのひとつとされます。
御嶽山が公的なかたちで語られるのが、延長五年(927)の国の公記録 「延喜式内社」に出羽国三座のひとつとして記されることにはじまるとされます。そのころ、いかに中央支配の圧力が強かったにしても、在地神としての盆地の神を無視することのできなかったことを示すものです。しかし、別の見方をすれば、盆地は神ともどもすでに中央支配の網の目にくみこまれてしまったことの証左にもなります。
国の歴史上の記録と、地域の歴史的な伝承との間にはさみ込まれてしまって、その本来の伝承のもつ意味を失いかけているものに、御嶽山とかかわりふかい、「白滝観音」があります(次項参照)。
「御嶽の内 湯の峯 白滝の滝壷」に観音を祀ったとされ、「出羽六郡三十三観音」の第一番目といわれるのがこれです。第二番が「見入野十一面観音」(杉沢の吉沢)、祀ったとされる保昌(満徳長者)は大鳥居山頼遠の係累とされます。開拓の祖神から受け継いできた自分たちの土地、出羽の国の守護を祈った《観音信仰》も、清原一族の内紛という不幸から、やがて「金沢ノ柵」の滅亡となり、「大鳥居ノ柵」も同じ非運を共にしてしまいます。《後三年ノ合戦》という時代的な大きな不運に見舞われて清原氏は滅亡してしまいます。しかし、勝者・藤原清衡(もと清原氏)は、平泉にいくさのない仏法聖地を築いたのですが、その花開く藤原文化の根源に、御嶽を祖神とする出羽の国の大鳥居山を基軸にして、「国家安全」を祈った「観音信仰」のもうひとつのかたちがあったことは見逃されないでしょう。
長くすたれていた御嶽山の再建のなるのが、正徳五年(1715)、秋田藩主の命によってです。あきらかに農民統治、支配の手段のひとつとしてでしょう。さらに享保十四年(1729)に神楽役社人として、三梨氏が、保呂羽山(八沢木)から、山麓・外山(そでやま)に移り住むようになります。毎年のように、藩主の御代参による豊作祈願の祝詞奏上などのあったことが、三梨家の「御山日記」「御用日記」に書き残されています。
盆地の人たちの崇敬の篤かったことを示す例に、御嶽山社殿に至る急峻な登り道を石段(七百九十八枚)にする寄進のあったことが知られます。明治三十年「御嶽山階(きざはし)新築寄進帳」にもと境町村下八丁、同下境の人たちによるとされます。この石段数は近年の確認(もと三内役場調べ)によれば四百八十二段。苔むした石段は、盆地の盛衰を語るかのようです。
昭和に入ると、不幸な十五年戦争のもたらす影響が、とうぜん、御嶽山にも及ぶようになります。昭和十二年(1937)、日中全面戦争が引き起こされると多くの人が大陸の戦線などに送られるようになり、盆地の人たちは、そうした出征兵たちの「武運長久」「戦勝」などを御嶽山に祈願するようになります。そうした中、昭和十三年の「戦勝祈願」として、平鹿郡吉田村の応召兵(出征兵)六九名の名を連記し、参拝祈願した吉田尋常高等小学校一年男組一同(現・中学一年)の“祈願戦勝”(名簿)が残されています。引率の教師は小松尹秀と記入されています。
もうひとつは、昭和十七年(1942)、布地の日の丸の旗に書かれた、仙北郡金沢町中関のふたりの母親による「武運長久祈願」が残されています。金沢町中関は奥羽線後三年駅に近い集落です。日の丸の旗の布地に出征兵九人の名が書かれ、〔発起人・本間よし、同いそ〕の名がみられます。九人のうちのふたりは戦死、戦傷死と伝えられますが、ほかの七人の方は無事に帰国され、その目で御嶽山を仰ぐことができたといわれます。
これまで、御嶽山の歴史をみてきました。伝承に耳をすませば、ひとことでいえば御嶽の山は神の山ということでした。
しかし、現代は、神は人間のくらしから遠く離れた存在の感があるのですが、御嶽の神、塩湯彦にみられるように、いかにも人間そのものであったことを歴史は語ってくれているように思われます。
そのむかし、東の国から、山を越えてやって来た人たち、「鳥海干拓伝説」が歌うように、盆地開拓のリーダーたちの汗と土のにおいといっしょに、人間の夢の大きさ、つよさを教えてくれているように思います。自分たちの先祖の開いた土地、祖神たちの見守るこの国、武力でひきさくものへの抵抗、「観音信仰」へすがっていく時代のすがたなど、この盆地に生きた人たちの必死な姿、そのシンボルでもあった御嶽の峰であったのではないでしょうか。
御嶽の神・塩湯彦が土くさい人間そのものであったように、盆地に生き、くらしてきた人たちのいかにも人間くさい、人間らしい夢、汗のにおいのする祈り、希望などを、盆地の御嶽の山の伝承からかぎとることができるように思われてなりません。
御嶽(みたけ)に、ていねいにもうひとつ「お」をおくる盆地の人たちの胸の思いの奥に、汗と夢の盆地開拓の原点、そのシンボルヘのふかい共鳴・共感の意味付けのあってのことだったように思わされてきます。これからも盆地の発展を見守る山として、夢と汗への共感をふかめあう人間くさい山であることを祈りたいものです。
(*「(1)御嶽山」の項を執筆するにあたり、「山内村史」からたくさんのことを学びました。それに、いくつもの資料などの引用も、同書からのものです。ふかくお礼申しあげます。)
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