第一章 御嶽山と盆地(3) 金沢の柵 大鳥居山にいた出羽山北の俘囚の長・真人光頼(まとのみつより)は、陸奥(むつ)の豪族安倍一族を討つのに手を焼いていた陸奥守・源頼義(みなもとのよりよし)
・《義家の父》の再度の懇望により、弟の清原武則(きよはらのたけのり)を援軍の将として一万の兵をおくります。康平五年(1062)、安倍一族を攻め滅ぼし、同六年(1063)、武則は鎮守府将軍となります。大鳥居山の清原一族の胸に去来したものは複雑なものがあったに違いありません。一族の保昌(やすまさ)は出家して保昌坊(ほうしょうぼう)を名乗り、「三十三観音」にすがった時代です。時代の落とす不安をふかく予知していたのだったのかも知れません。 「…お前の父の頼義は、貞任・宗任を討つ事ができないので、家来になるための名簿(みょうぶ)をささげ、故武則将軍の加勢をいただき、運よく貞任を討つ事が出来たのである。それなのに、お前は、恩に報いないのみか、重代の家来として重恩の主君を攻めるとは、不忠不義を犯している。天罰を蒙るであろう…」 (『古代史上の秋田』より) まさにそのとおり。千任の正当な論破に、義家の苦衷の心中がうきぼりにされます。歯ぎしりしたに違いありません。 後三年の合戦は、清原氏の内紛に乗じ奥羽に覇権樹立をもくろむ陸奥守・源義家の謀略だった-あきた県民カレッジ講師や秋田市史執筆協力員を務めた樋口知志・岩手大教授の仮説が歴史研究者らに注目されている。先月末、横手市で開かれた「合戦の歴史遺産を考える集い」の基調講演で披露した。 (横手支局長・菅原康人) 地元に生きるものにとっては、藁にもすがる思いも強いのですが、ひとり地団駄を踏むだけでは、よい展望も開けません。学者によるこうした研究的発言は胸のすく思いを深くします。よくぞやったりで、今後の研究の発展を見守りたいばかり。 「源助」の先祖は伊勢から来た武士で、島次郎某といい、清原家衡の家臣であったが、「後三年の役」敗亡の際、「猿酒」と称する薬酒をかかえて、御嶽山を越え田代に逃れたと伝えられる。『雪の出羽路』では、「源助」家伝の「猿酒」に触れて、「世はひろしといへども、清原ノ家に伝えて、この酒殿のおほみ神は、女ノ君にてさふらへば、此酒もてよろづのやまふを癒すしるしをうる也。あなからいから、しょっからの酒也。…」と記す、その製法まで聞き取りくわしく記録している。 この『雪の出羽路』の《猿酒》の項のおしまいに、 …後三年の落城のとき、此獼猴酒の甕を持去りて山内の田代邑に身をまたく避れて、其代は家に鞍、鎧なンども持しが、菩提寺なれば金沢の祇園寺に寄付せしよしをいへり。 御嶽山の真西の山麓に金沢ノ柵があります。祇園寺はその金沢ノ柵の一番奥にあり、すぐ背後は御嶽に通じる深い山。田代の「源助」(島田清家)も、この祇園寺を菩提寺としていたことがわかります。 夏が近づくころ、柵のあちこちの斜面にシャガ(著莪)の白い花の咲くのをみることができます。山地の陰地斜面などに群生するとされるのですが、厚くて光沢をもつ剣状の葉に、柵落城のかなしさを感じてしまいます。剣状の葉に一族の意地の光るのをみる思いがします。花の小ささにも、また実を結ばず地下茎でふえることにも、どうしてか落城の非運・無念を覚えずにはいられません。 *つけたし ①○ 蟻塚や敗れし者の塚知らず 森屋けいじ 平成四年(1992)九月十五日、《後三年の役九〇〇年祭》の記念行事として、市立金沢小学校に於いて、『古戦場全国俳句大会』が開催されたときの、この句は講師特選句のひとつ。作者は横手市の人。かまくら吟社会員。 【蟻】 蜜蜂同様、女王蟻・雄蟻・働蟻でりっぱな社会生活を営んでいる。地中に巣を営み、土を掘り出して地上に積むので、蟻の塔、または蟻塚と言っている。ふつう、われわれの目に触れるのは働蟻で、たくましい労働者であり、巣を造り、餌を運び、卵の世話をし、幼虫を哺育し…一切の労働に従事する。…巣の技巧は蜂に劣るが、知能的な生活はまさり…(略) (『日本大歳時記』) 横手盆地の開発に足を踏み入れた人たちを伝える古記録、『華厳院古記』によると、御嶽山に祀られる塩湯彦権現のふたりの兄弟は、「陸奥の國ヨリ来タル 鳥海湖水御一見…」と、有名な横手盆地・鳥ノ海干拓伝説を伝えるのが七〇〇年頃。盆地の開拓がすすんで、御嶽山が延喜式内社のひとつとなるのが八九一年。中央支配の手が出羽にもじわじわとのびだしているのがわかります。杉沢に長者森・糠塚などの字名を今に残し、開発長者の存在を示すとされ、やがて大鳥居山には清原一族の長・真人光頼、その子、大鳥居頼光が住んだとされます。時代のもつ不運をみつめて観音信仰にふかくすがる保昌房もこの頃の人。光頼の弟が真人武則で、源頼義(義家の父)の懇願により、陸奥へ出兵、翌年(1063)には功により鎮守府将軍となるのですが、没後、清原一族の内紛が災いして1087年、義家に攻められて金沢ノ柵・大鳥居ノ柵は落城、清原一族の滅亡となります。時代のもつ非運そのものでした。 (「横手/俳句散歩」より) *つけたし ②御霊信仰と、鎌倉権五郎 金沢公園を少し登ったところに、小高い台地がみえて、「鎌倉権五郎景政功名塚」があります。景政は、清原氏を攻めた義家の家臣のひとりです。その鎌倉権五郎景政にまつわるメッコ鰍(かじか)の言い伝え(故事)があります。 金沢のメッコ鰍 かねざわのめっこかじか (「秋田大百科事典」より) 言い伝えですから、矢の当たったのが右目であったり、左り目であったりします。ここでおもしろいのは、権五郎の五郎にかかわっての御霊(ごりょう)信仰です。この御霊信仰について語ってくれている次の一文があります。 《「“かまくら”の歴史と語源」 文=宮崎 進 》 より。 …… (秋田県県史編纂室) 「御霊信仰」について述べてあるヶ所の抜き書きです。これは、「“かまくら”の歴史と語源」が表題で、御霊信仰にかかわる権五郎神=鎌倉大明神への合体・習合についてのふかい考察を示すもので、横手郷土史資料第30号にも、「“かまくら”語源考」が寄稿されています。「歴史散歩」での『かまくら』の項でもとりあげる予定でいます。ここでは鎌倉権五郎景政について触れてみました。 |
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