山と川のある町 歴史散歩

第一章 御嶽山と盆地

(3) 金沢の柵

  大鳥居山にいた出羽山北の俘囚の長・真人光頼(まとのみつより)は、陸奥(むつ)の豪族安倍一族を討つのに手を焼いていた陸奥守・源頼義(みなもとのよりよし) ・《義家の父》の再度の懇望により、弟の清原武則(きよはらのたけのり)を援軍の将として一万の兵をおくります。康平五年(1062)、安倍一族を攻め滅ぼし、同六年(1063)、武則は鎮守府将軍となります。大鳥居山の清原一族の胸に去来したものは複雑なものがあったに違いありません。一族の保昌(やすまさ)は出家して保昌坊(ほうしょうぼう)を名乗り、「三十三観音」にすがった時代です。時代の落とす不安をふかく予知していたのだったのかも知れません。

  やがて、衣川にいた鎮守府将軍武則の三代目真衡の養子成衡の婚礼に端を発した「後三年の合戦」が永保三年(1083)。この一族の内紛につけ入った義家は、沼ノ柵(沼館)の家衡を攻めますが、みごと敗退します。たいへんな寒さと大雪のためです。家衡の叔父武衡が、堅固な山城、金沢ノ柵にこもることをすすめ、ふたりの将は次の年を迎えます。

  今に残る「雁行の乱れ」、また、「景正とメッコカジカ」などの義家側の逸話がありますが、こちら側・金沢ノ柵にたてこもった清原側の逸話にこそ「後三年の合戦」の本当の姿をよみとることが出来るというものです。武力では攻め落とせない金沢ノ柵。しかし、戦いは非情、兵糧攻めは籠城側に決定的に不利です。それでも、千任(かずとう)という家衡の乳母の子が言論戦に打って出るのです。矢倉の上から大声で論陣を張り、敵将義家を歯ぎしりさせるのです。

「…お前の父の頼義は、貞任・宗任を討つ事ができないので、家来になるための名簿(みょうぶ)をささげ、故武則将軍の加勢をいただき、運よく貞任を討つ事が出来たのである。それなのに、お前は、恩に報いないのみか、重代の家来として重恩の主君を攻めるとは、不忠不義を犯している。天罰を蒙るであろう…」

(『古代史上の秋田』より)

  まさにそのとおり。千任の正当な論破に、義家の苦衷の心中がうきぼりにされます。歯ぎしりしたに違いありません。

  だが、非運の金沢ノ柵落城の日となるのが寛治元年(1087)十一月十四日、柵中は火の海、血の海……武衡はヒルモ沼で発見され、家衡も逃げのびるところを捕らえられ、首をはねられてしまいます。千任は捕らえられても雄々しくいさぎよかったのですが、憎しみ深い義家は千任の舌を抜き、ねちねちといじめ殺した、と『同書』にあります。“名将”とはとても言えない仕打ちです。

  秋田さきがけ新報・夕刊に、「地方点描」というコラムがあり、おもしろい記事ののることがあります。平成19年(2007)11月10日の夕刊に「義家の謀略?」と題する次の記事が目をひきました。これは、ある歴史研究会の講演内容の一部ということのようですが、時代の大きな変化のあらわれかと興味ふかく読んだものです。

  後三年の合戦は、清原氏の内紛に乗じ奥羽に覇権樹立をもくろむ陸奥守・源義家の謀略だった-あきた県民カレッジ講師や秋田市史執筆協力員を務めた樋口知志・岩手大教授の仮説が歴史研究者らに注目されている。先月末、横手市で開かれた「合戦の歴史遺産を考える集い」の基調講演で披露した。

  疑惑のシナリオはこうだ。内紛で清原氏の当主・真衡(さねひら)に加勢し、弟の清衡・家衡軍を破った義家は、真衡の急死後、帰降した兄弟を許しただけでなく、真衡の遺産である奥六郡(北上川沿い)を二分割して与えた。真衡の後継者として、養子で義家の義弟の成衡がいたにもかかわらずである。成衡は下野に移された後、義家の下命で討たれたとされる。その後、清衡、家衡兄弟は土地をめぐり不仲になり合戦。義家は清衡に加勢、沼柵、金沢柵での合戦の末、家衡やおじの武衡を討った。

  「義家は傀儡(かいらい)として利用すべき清衡を除いて清原氏嫡流を順々に始末。最後には自ら広い奥羽を治めようと謀ったのではないか」と樋口教授。真衡も義家が殺害した可能性が高く、当主となれば攻めづらくなる同族の成衡も廃嫡した上、殺害。さらに、清衡をひいきして家衡との兄弟対立を画策したと思われる」と説く。

  文武両道の誉れとたたえられる「雁行の乱れ伝説」などによるヒーロー的位置付けとは裏腹に浮かび上がる義家のヒール像は興味深い。

  古代律令社会から中世武家社会へのドラスチックな分岐点となった合戦は、教科書に載り県内外から注目され、研究者も数多い。清衡が初代となった奥州藤原氏が栄華を築いた平泉は来年の世界遺産登録を目指している。後三年の合戦は、九百二十年の時を経て今、旬を迎えた。

  (横手支局長・菅原康人)

  地元に生きるものにとっては、藁にもすがる思いも強いのですが、ひとり地団駄を踏むだけでは、よい展望も開けません。学者によるこうした研究的発言は胸のすく思いを深くします。よくぞやったりで、今後の研究の発展を見守りたいばかり。

  少し、先を急ぎます。金沢ノ柵落城につながる落人伝説があります。

  御嶽山は開拓の祖神を祀る産土神でしたから、その山麓に近い金沢ノ柵の人たちも崇敬篤くしたものだったに違いありません。金沢ノ柵落城という清原一族の滅亡をくぐり抜けた人々が、その御嶽の山を越えて逃れ、奥深い山里に隠れ住んだという落人伝説が、もと山内村の外山、田代などに多いようです。いくつかの口承(家伝)のなかに「源助」(田代・島田清家)家伝として「猿酒」は有名です (山内村史/上巻・《第一章三項/隠れ里の落人伝説》より)。

  「源助」の先祖は伊勢から来た武士で、島次郎某といい、清原家衡の家臣であったが、「後三年の役」敗亡の際、「猿酒」と称する薬酒をかかえて、御嶽山を越え田代に逃れたと伝えられる。『雪の出羽路』では、「源助」家伝の「猿酒」に触れて、「世はひろしといへども、清原ノ家に伝えて、この酒殿のおほみ神は、女ノ君にてさふらへば、此酒もてよろづのやまふを癒すしるしをうる也。あなからいから、しょっからの酒也。…」と記す、その製法まで聞き取りくわしく記録している。

  この『雪の出羽路』の《猿酒》の項のおしまいに、

…後三年の落城のとき、此獼猴酒の甕を持去りて山内の田代邑に身をまたく避れて、其代は家に鞍、鎧なンども持しが、菩提寺なれば金沢の祇園寺に寄付せしよしをいへり。

  御嶽山の真西の山麓に金沢ノ柵があります。祇園寺はその金沢ノ柵の一番奥にあり、すぐ背後は御嶽に通じる深い山。田代の「源助」(島田清家)も、この祇園寺を菩提寺としていたことがわかります。

  また、御嶽山のすぐの山麓にあるもと外山集落の人たちも、遠い山道をたどって、お盆には祇園寺にお参りするといわれます。

  落人伝説を、単なる口承とするわけにはいかないものをもっていることを知らされます。いま、ダム建設のため、こうした落人伝説をもつもと外山・福万・田代などの集落は集団移転、軽井沢に「四邑一郷」の大きな集落をかまえています。

  夏が近づくころ、柵のあちこちの斜面にシャガ(著莪)の白い花の咲くのをみることができます。山地の陰地斜面などに群生するとされるのですが、厚くて光沢をもつ剣状の葉に、柵落城のかなしさを感じてしまいます。剣状の葉に一族の意地の光るのをみる思いがします。花の小ささにも、また実を結ばず地下茎でふえることにも、どうしてか落城の非運・無念を覚えずにはいられません。

  柵は、いまも静かに眠っているかに見えます。


*つけたし ①

  ○ 蟻塚や敗れし者の塚知らず     森屋けいじ

  平成四年(1992)九月十五日、《後三年の役九〇〇年祭》の記念行事として、市立金沢小学校に於いて、『古戦場全国俳句大会』が開催されたときの、この句は講師特選句のひとつ。作者は横手市の人。かまくら吟社会員。

【蟻】 蜜蜂同様、女王蟻・雄蟻・働蟻でりっぱな社会生活を営んでいる。地中に巣を営み、土を掘り出して地上に積むので、蟻の塔、または蟻塚と言っている。ふつう、われわれの目に触れるのは働蟻で、たくましい労働者であり、巣を造り、餌を運び、卵の世話をし、幼虫を哺育し…一切の労働に従事する。…巣の技巧は蜂に劣るが、知能的な生活はまさり…(略)

(『日本大歳時記』)

  横手盆地の開発に足を踏み入れた人たちを伝える古記録、『華厳院古記』によると、御嶽山に祀られる塩湯彦権現のふたりの兄弟は、「陸奥の國ヨリ来タル 鳥海湖水御一見…」と、有名な横手盆地・鳥ノ海干拓伝説を伝えるのが七〇〇年頃。盆地の開拓がすすんで、御嶽山が延喜式内社のひとつとなるのが八九一年。中央支配の手が出羽にもじわじわとのびだしているのがわかります。杉沢に長者森・糠塚などの字名を今に残し、開発長者の存在を示すとされ、やがて大鳥居山には清原一族の長・真人光頼、その子、大鳥居頼光が住んだとされます。時代のもつ不運をみつめて観音信仰にふかくすがる保昌房もこの頃の人。光頼の弟が真人武則で、源頼義(義家の父)の懇願により、陸奥へ出兵、翌年(1063)には功により鎮守府将軍となるのですが、没後、清原一族の内紛が災いして1087年、義家に攻められて金沢ノ柵・大鳥居ノ柵は落城、清原一族の滅亡となります。時代のもつ非運そのものでした。

  掲句の「蟻塚」は、金沢ノ柵に拠った清原一族への連想につなげ、その〈落城〉の非運を「敗れし者の塚知らず」と詠むのです。後三年の合戦の史跡としては、義家が雁の乱れで伏兵を知ったとされる「西沼」、また、「兜八幡」「景政功名塚」「陣ヶ森」など勝者の側のものが多いのですが、作者は、はるか九00年の時空をさかのぼって、地元・出羽の國の「敗れし者」の「塚」さえもないことを嘆き、その歴史的非運への洞察と鎮魂の思いは鋭く深い。

  芭蕉の有名な句、「夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと」がありますが、この古戦場は衣川。古戦場・横手金沢の「蟻塚」の「蟻」も季語としては、おなじ《夏》です。「夏草」も、「蟻塚」も、その把握と凝視とは、みごとの一語に尽きるといえます。作者・森屋けいじ氏の地元・横手金沢に生きるただものでない歴史認識のするどさに、ただただ驚かされるばかりです。

(「横手/俳句散歩」より)

*つけたし ②

  御霊信仰と、鎌倉権五郎

  金沢公園を少し登ったところに、小高い台地がみえて、「鎌倉権五郎景政功名塚」があります。景政は、清原氏を攻めた義家の家臣のひとりです。その鎌倉権五郎景政にまつわるメッコ鰍(かじか)の言い伝え(故事)があります。

  金沢のメッコ鰍 かねざわのめっこかじか

  横手市金沢あたりの川に住む鰍は片目であるという伝え。これは、後三年の役に、八幡太郎義家(1041~1108)の家来として戦った鎌倉権五郎景政が、敵の鳥海弥三郎に左目を射抜かれた時に目の傷を洗ったからであるという。片目魚の伝説は、仙北郡西木村西明寺の堂ノ沢や男鹿市一ノ目潟などにもあり、特定の人の死と関係づけられている。中でも権五郎(ごんごろう)と御霊(ごりょう)という音の通じ合う処から、曽我五郎、佐倉惣五郎なども御霊信仰と深くかかわっているといわれる。

(「秋田大百科事典」より)

  言い伝えですから、矢の当たったのが右目であったり、左り目であったりします。ここでおもしろいのは、権五郎の五郎にかかわっての御霊(ごりょう)信仰です。この御霊信仰について語ってくれている次の一文があります。 《「“かまくら”の歴史と語源」 文=宮崎 進 》 より。

  ……
  王朝時代の平城京や平安京の都市生活が続くうちに伝染病の流行がゆゆしい問題となった。藤原氏の中の有力者四人が次々と伝染病にたおれるという事件も起こった。そこで奈良朝末期に疫神に対する祭礼がおこなわれ、平安前期(863年)には、そうした疫病や災害の原因として怨霊を考え、これをなだめるために御霊会(ごりょうえ)を行うに至った。いずれも国家的行事だった。そして中央に発生した御霊信仰は、地方都市の形成に伴い地方に伝播し、秋田ではやがて権五郎信仰となったものである。“御霊”ごりょうの“五郎”ごろう への転訛については、柳田国男氏に詳しい考証がある。

  小正月行事である左義長への権五郎信仰の結合は、秋田独特の民俗である。……この古代信仰の正月行事への習合によって権五郎神は歳神に代って旧正月行事の歳神となり、鎌倉大明神の省略が“かまくら”の語源となったということは、大体疑いのないところであろう。 

(秋田県県史編纂室)

  「御霊信仰」について述べてあるヶ所の抜き書きです。これは、「“かまくら”の歴史と語源」が表題で、御霊信仰にかかわる権五郎神=鎌倉大明神への合体・習合についてのふかい考察を示すもので、横手郷土史資料第30号にも、「“かまくら”語源考」が寄稿されています。「歴史散歩」での『かまくら』の項でもとりあげる予定でいます。ここでは鎌倉権五郎景政について触れてみました。


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