山と川のある町 歴史散歩

第一章 御嶽山と盆地

(4) 蛇の崎橋

  菅江真澄のあらわした、『雪の出羽路』(文政九年/1826)に横手の「蛇の崎」についての言い伝えが書かれています。

○ 横手によこたふ黒沢川の流に上ミ中カ下(しも)と三渡の橋あり、(中略)下の橋を蛇ケ崎といふ。いにしへ此淵に水蛇のすみたりしよしもてしかいふとも、また後三年の戦ひのとき、柴橋を綱もてところどころ釣りて、義家将軍の渡り給はゞ、其綱きりはなちて義家朝臣を此河に沈め奉らむと、かねて武衡、家衡はかりごちて、其綱一度に切りはなちたりしかば、義家あそみ、ゆくりなう此はかりごとにおちてあやうかりしが、岸の蛇籠に止りてことなうおましましき。さりければ、蛇籠が崎とむかしは云ひしかど、今はもはら蛇が崎と省語にいふ也と、俚人のかたりぬ。

  ふたつのことを書いています。

  ひとつは、古くは「蛇ガ崎」といったとあり、近くの淵には“水蛇”が住んでいたといいます。鐘つき堂の下の淵は、「大淵浅く、小渕は深く渦巻きしが、今は大淵全く埋め立てられて(昭和7年)、小渕のみぞ残れる。大小何れの淵なりけむ、昔はこの底、塩湯彦の神しずもります御嶽の清水と通へりと言い伝へ…」(『横手郷土史』《蛇の崎の淵》より)とあって、河童(かっぱ)が棲んでいて年にひとりはひきずりこまれた、ともあります。淵の不気味さが語りつがれたものでしょう。淵の水は、盆地の産土神・御嶽山のすぐ下の清水とつながるものだというのには、淵の水の冷たさもさりながら、盆地の御嶽山への信仰のふかさの一端を伝えるものでしょう。

  ふたつめは、大鳥居山ノ柵、金沢ノ柵を攻めた(後三年の合戦=1083~87)、源義家をあげ、つり橋から落とされたが護岸用の“蛇籠”につかまって助かった、そのことから、「蛇籠が崎」と言われるようになった、というのです。

  その“蛇籠”について辞典では次のようです。

○ 蛇籠  丸く細長く粗く編んだ籠の中に栗石や砕石などを詰めたもの。河川工事の護岸、水制などに用いる…。

  (『広辞苑』)

  「俚人のかたりぬ」ですから、横手の人たちの古くからの言い伝えということで“伝承”といわれるものです。いかにも事実的な歴史そのもののように読めてくるのですが、やはり“伝承”です。しかし、“伝承”だからといってなにもかにも否定してしまっていいものでしょうか。

  “伝承”にしてもなんらかの意味をもつものです。つり橋のこと、蛇籠のことなどをとおして、この“伝承”のオクにある、義家軍へのわが地元の抵抗の姿を伝えているように見えてきます。わがもの顔をした圧倒的多数の義家軍を、義家サマ、サマと迎えたのではない地元の抵抗のその証しをここにみるように思います。

  さきの『雪の出羽路』で真澄はつづけて、横手川のカジカの鳴き声をたいそうほめています。でも、地元横手の人はカジカのことをよく知らないようであったと書いていて、なんだかはずかしくなります。

  昭和八年(1933)刊の「横手郷土史」=[余禄/叢談]の項に《蛇の崎の淵》があります。巻淵とか大淵・小淵の話で、河童(かっぱ)まで出てくる話です。蛇の崎橋にまつわる昔の話ですので次に引用してみます。

  戸蒔家伝記に、昔横手の巻淵の上なる瀬に怪物ひそみて日暮に通る者あれば両足をひきて淵に巻き込むの噂専らなり。戸蒔甲斐守の伯父又四郎、牛切丸といふ名刀を腰にして此の河を渉るに、果たして綱の如きが足に纏ひつくを、彼の刀を抜きざまに斬りつけぬれば、浮びしは廿尋ばかりの大蛇、其の流れ紅になりぬと見えたり。巻淵とは蛇の崎の淵ならむか。

  横手と言へば直ちに蛇の崎を想ふ程にて其の名遠くきこえぬ。近き頃までは大淵浅く小淵は深く渦巻きしが、今は大淵全く埋め立てられ(昭和7年)て、小淵のみぞ残れる。大小何れの淵なりけむ、昔は此の底、塩湯彦の神しづもります御嶽の清水と通へりと言ひ伝へ、また河童の棲みて一とせに必ず一人は餌食となすを信ぜられ、又明治二十七年の洪水には、ここに沈みて果てし人の多かりければ、夜更けて岸を通るに、亡霊のつぶやき交わす虚ろなる声々物凄き物語あり。

  明治の末までは時折耳にせる童らが早口文句に「蛇の崎の河童コ雌河童コ雄河童コだ」。あはれ、ひと日、河原の小石暖かなる麗かさに乗じて、雌河童コ雄河童コ、親河童童河童の出て遊ぶならば面白からましを。

  さきにも引用した、「昔は此の底、塩湯彦の神しづもります御獄の清水と通へりと言ひ伝え…」はここからのもの。蛇の崎につながる歴史的な話はいろいろありますが、御獄にかかわるこの伝承はかなり古いのではないでしょうか。おそらく、侍町になるもっともっと前からのものと推察されます。横手に人が住むようになって、御嶽山への信仰のふかさ をあらわしているものといえます。

  蛇の崎橋にまつわるいろいろな話が残されているのですが、先をいそいで、橋そのものの歴史に少し触れて結びにしたいと思います。

  藩政期の「六郡郷村誌略」には、[横手]の項で、「横手川ハ町ト侍町ノ間ヲ流ル橋三ケ所アリ。浄光寺橋、中ノ橋、蛇ノ崎橋此橋長サ三十六間等(ばかり)ナリ。」(一間は六尺=約1.818メートル。三十六間は約65メートル。)もちろん木橋です。大きな橋だったことがわかります。それでも当時としては大きな洪水のたびに流失したものでしょう。

  「続横手郷土史」(昭和8年刊)の[名所旧蹟]の項に〈蛇の崎橋〉の次の記述があって、これまで木橋であったものを「鉄筋コンクリートによるゲルバー方式の近代架橋竣工」を伝えています。

…昭和六年(1931)十二月五日、現橋ゲルバー式新橋開きの秋南新報祝号に此絶景を述べて居る。

  蛇ノ崎橋は横手町の名所として古来から有名なのは、種々なる伝説に富み、送り盆や煙火(花火)などによるが、橋上より眺むる風光の美にもよるものであろう。

…(中略)……更に横手公園を橋上より眺めたる景色は…横手公園を園外から眺めるには蛇ノ崎橋をもって最とする。

  また西には秋田富士と称される鳥海の霊峰を水の行く手に望み…旅人の旅情を慰めてくれる楽譜である。

  総工費は八万五千八百十七円。橋梁の全重量は十二万貫で、ゲルバー式としては本県最初のものである。

  なんともたいへんな美辞麗句が並ぶ長文なのですが、昭和の始め、これも「蛇の崎橋」によせる述懐ともいうべき感慨の一つ。
   *註 ゲルバー方式=ひと口で言うと橋桁が動く構造の橋。〈連続梁の途中を適当に切り、そこをヒンジ(蝶番)でつないだ構造の橋。弱い地盤に対応できる…〉(「広辞苑」)

  このあと、車の交通量も増え続け、橋の両側に歩道をつけ加えたりしたのですが、なんとも竣工から、はや六十年、橋も還暦。そして七十年! 橋の下を流れる水の早さそのものです。

  平成に入り、「ふるさとの川モデル事業」の指定、さらに「都市計画道路の中央線」の決定などによって、新蛇の崎橋の建設がすすみ、平成13年10月25日開通となったのです。開通を間近に迎えた9月14日、さきがけ朝刊の〔地方点描〕欄に、「蛇の崎橋」がのり、その旧蛇の崎橋への痛切の思いと感謝を述べています。その歴史的な眼と声は市民の声を代弁するかのようにです。

  横手市中心部の横手川に架かり、毎年八月の「送り盆まつり」で屋形船が激突する蛇の崎橋が間もなく、七十年の歴史を閉じる。十月二十五日、今の橋から約七十メートル下流に、幅が二倍以上ある新しい橋が開通した後、解体される。

  現在の橋は、昭和六年五月に完成した鉄筋コンクリート橋。十六年に、横手公園から撮影したと思われる街中心部の写真には、周辺に大きな建築物がないだけに、今と違って大きな存在感を示している。重要な交通施設としてはもちろん、「山と川のある町」の一つの象徴として、その姿を心にとどめている人も多いだろう。

  橋が無くなるのを前に市は、蛇の崎橋への思いや思い出をテーマにした作文を募集している。橋は、通行量は減ったものの交通の要所であり、通学路の一部。この橋にまつわる心の情景が語られるのを楽しみにしている。入賞作品は開通式で披露される。

  長く人々の心にとどめるため、モニュメントを建ててほしい、との声も出ている。この要望に対して市は「建てる方向で協議する」考えだ。

  新しい橋はほぼ完成した。狭くて何の変哲もない現在の橋は、当然ながら見劣りがする。だが、それがかえって、橋へのいとおしさを募らせる。

  開通式の日は、現在の橋の終えんの日でもある。式では、取り壊される橋への感謝を、大いに表してもらいたいものだ。それが、市民生活を支え、市の変容をじっと見守ってきた蛇の崎橋への、せめてもの恩返しだと思う。

(横手総局長 佐藤 裕)

  「山と川のある町」が、それこそ生まれたての遠い遠い昔、吊り橋の綱切り落として、敵将の乱入をこばんだ蛇の崎橋にまつわる伝承…淵の河童コも喝采してよろこんだに違いありません。御獄に通じる淵の深遠さを語る伝承は、水は人々のくらしの願望のもとのもとだったことの証しでしょう。

  たくさんの伝承をかかえて、町の変容を見守ってきた蛇の先橋!

  この町のシンボルとして、これからも、行き交う人々のいのちの重み、くらしの重みをうけとめていってほしい橋です。


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