山と川のある町 歴史散歩

第一章 御嶽山と盆地

(5) 大屋梅

  “大屋梅”で知られる、栄(さかえ)・大屋の里。その山すそに近い鬼嵐の集落に、“大屋梅”の歴史を今に伝える梅の木があります。

  その藤原さん宅の庭のまん中に、枯れかけた根もとからの梅の木が、それさえもが古木然とした風格を伝えているのを見ることができます。藩政期にすでに“千年木”と賞されたというのですから。もともとのその梅は枯れてしまったものの、その木を親木として村内に多くの梅の木が育ち、“大屋梅”の里となったものでしょう。

  この梅の古木のそばに、言い伝えをまとめた案内板がたっています。

「…天長年間(824~833)、今から一千二百年前、小野春風(平安初年の武人、陸奥鎮守府将軍)が征夷のため出羽に来たとき随行してきた彦右衛門、平右衛門の二人は、江州(近江の国、滋賀県)に帰らず、藤原、阿部の姓を名乗って、この地に住み着いたとき植樹された…」

(「大屋梅の由来」/大屋梅保存会)

  言い伝えですから、裏づけるものも不足なのですが、史料をさぐると、古代の東北へと誘ってくれる、さすがの老梅です。

  天平五年(733)に出羽ノ柵が高清水岡(いまの秋田市高清水)に移され、秋田城となります。時の中央政府(京都)の力によってです。東北地方と都とのつながりがしだいに強くなってきた頃です。ところが、秋田城の国司(役人)の税の取り立てがきびしく、これに耐えかねた土着民が、ついに決起。この秋田城を攻め、自分たちの主権を宣言する「元慶の乱」(がんぎょうのらん)がおこります。その解決のために、新しく藤原保則を出羽の南から、小野春風を陸奥(岩手側)から鹿角の方へ回らせてなだめにかかり、秋田城もなんとか修復して、元慶四年(880)に帰京したと『三代実録』に書かれているといわれます(『図説・秋田県の歴史』)。

  そのとき、京に近い近江(おうみ=今の滋賀県)からきた彦右衛門、平右衛門のふたりが帰らずに残ったものといわれます。言い伝えとの年代のずれはあるとしても、ふたりのうごきには時代のおとすうねりのあとを見ることができましょう。

  《梅》など、中国からもたらされて、まだ日の浅かった時代、京都の貴族たちがことのほか風雅の心を培ったものといわれますが、はじめは〔薬用〕としてだいじにされ、社寺などでの植栽が主とされたようです。風雅を愛(め)でる心あってのことと、〔薬用〕への着目のあったことによる植樹と考えられます。鬼嵐のこの地への植樹を、元慶四年(880)とすると、平成二〇年(2008)では、およそ千百余年前ということになります。

  言い伝えとは別に、確かに記録されたものとして、『雪の出羽路』があります。文人紀行家・菅江真澄が書いたもので、横手・平鹿地方を訪れたのは文政九年(1826)といわれます。この『雪の出羽路』には絵も残されていて、「大屋郷大梅図」は、見るからにみごとです。

「雪の出羽路」に残されている「大屋郷大梅図」


  この絵によせられているのが次の文です。

  此梅の木鬼五十嵐の彦右衛門が庭に在り。木の高三丈四、五尺、東三十一間、南北に十四間、梅ひろごり 周囲一丈一尺、花はうす紅にして、満開のときは白し。其実小ク凡三四斛をむすぶといへり。新町むら西ノ方にみゆ。(註=「斛(こく)」は一斗の十倍。)

  本文の《などころ》(名所)の項には、

○江津が庭梅
  おなじ鬼嵐の江津彦右衛門が庭に在り。まことに大樹にして出羽、陸奥はいふもさらなり、かかる梅の木は世に類(ただ)かたやはある。花は一重のうす紅にて、里民(ところびと)は浪速梅(なにわうめ)といへり。

  たいへんな褒めようです。文中にある「江津」は近江の別称です。このころからして、すでに老梅。でも、一本の梅の木からの梅の実の収穫が、なんと三~四石。花よし、実よしというわけで、真澄は驚嘆、「まことに大樹にして、出羽、陸奥はいうまでもなく、かかる梅木は世に類をみない」とまでの絶賛ぶりです。花は一重(ひとえ)の薄紅色、里びとは 《浪速梅》(なにわうめ)ということにも、風雅をめずる真澄の心がふかくうごいたのかも知れません。

  この「江津の庭梅」の次の項に、真澄はもうひとつの見聞を記しています。

○阿部氏
  旧家也。阿部平右衛門とていといと 古き家にして、家に古き鎗(やり)を蔵(もた)り。ゆゑよし なほ後にいふべし。

  たいへん古い“平右衛門家”に、真澄は感嘆しきり。さらに“古き鎗”への興味をつのらせるのですが、どうも実際には手にして見てはいないように思われます。尋常でない“古さ”に心引かれる真澄のふかい探求心をのぞかせます。

  この鎗について、阿部家現当主・平治氏にお聞きすると、「わたしの小さかった頃、まだ古い家の頃は、鎗の穂先の抜けた柄はあったもの。物干し用とかに使っていたのではなかったろうか。家の新築があったりしたので今は見当たらない…。」といわれます。

  古代東北の地を震撼させた「元慶の乱」の風を伝えるともいえる貴重な史料物として、平右衛門家の鎗の見当たらないのはなんとしても惜しまれるばかりです。ひょっとして、物置の隅のあたりにひっそりと眠っているのかも知れません。

  ところで、「梅」にもどってもうひとつ、『六郡郷村誌略』(年代不詳)での「江津の庭梅」では、次のように記述されています。

○江津庭梅
  此梅ノ枝十七間アリト云フ 大屋新田ノ百姓彦右エ門ガ屋舗ノ梅ハ数百年来ノ老木ニシテ回リー丈余アリ枝モ四方ニ繁延シテ地上ニ垂ルヽ故ニY木数本ヲ立テ枝ヲ支ヘテ置ナリ東へ垂タル枝ノ梢ヨリ西ヘナヒキタル枝ノ梢マテ其間数十間程モアルヘシ実ノ多ク結フ年ハ代金五両價位売リ出スニヨッテ五両梅ト唱フ珍ラシキ老梅ナリ

  老木への驚きの目が、素直に記述されていて、枝の「四方ニ繁延」のようすがよく見えてくるようです。実の代金五両とは、これまた驚きの一つといえましょう。それで〈五両梅〉ともいわれるとは、実利的な名付けでありながら、村の人たちの率直な驚きそのものが見えてくると言えます。鬼嵐から大屋新町へと梅の栽培がひろがる大きな理由が見えてきます。

  《五両梅》のほかに《十両梅》の記録もあります。明治二七年(1894)頃に書かれた旅行記、『羽陰温古誌』(「新秋田叢書」第六巻=県内の古記録、古文書を収録したもの)のなかに、大谷(屋)村辺の梅見聞記があります。明治時代の文人墨客風の記述そのもので漢文調です。

  大谷村ハ県南平鹿郡中ノ一小村落ニシテ、梅子ヲ産スルヲ以テ名アリ。此ノ地、梅樹ヲ産スルヲ事幾百年ナルヲ不知ラ。毎戸老梅ヲ不見ナク、大サ皆合抱ス可シ、人、梅樹ヲ呼フニ十両梅ヲ以テス。其ノ意、蓋シ一梅樹ノヨク十両ニ値スルノ梅子ヲ産スルヲ以テ名ツクト云フ。(中略)

  さきの「六郡郡邑記」では、《五両梅》というとあったのですが、ここでは《十両梅》と呼ぶとあります。時代による物価の問題はあるとして、一本の梅の木からの収穫高の驚きを表現しているわけで、近隣四方に広く知られていたことを書き留めていると言えましょう。

  これに続くように、「千年木」の記述があります。

  寺(註=光徳寺)ヲ出テ、渓ニ沿ヒ疎影倒ニ水ニ遮シ、玲瓏玉ヲ砕クノ風情ヲ見、直ニ藤原某園中ノ霊梅ヲ訪フ。実ニ天下ノ名樹ニシテ山間ノ一小村ノモノニ非ス。老幹十囲蒼鮮鱗皺旧枝春ヲ迎ヘテ花ヲ発シ、奇古言ウ可カラス。曾テ天樹院公(註=九代秋田藩主・義和〔よしまさ〕公法名。安永四年〈1775〉~文化一二年〈1815〉)此地ヲ過キリ、此樹ヲ賞シテ千年木ノ名称ヲ賜フ。園主一葉ノ図ヲ示シテ曰ク、是レ則チ天樹院公枉駕当時ニ於ケル斯樹ノ姿態ニシテ、梅子ヲ産スル事百二十俵、柯葉繁茂昼猶陰ヲナセリ。天樹院公賜名ノ后、漸次衰観ヲ呈シ、今ニ至りテ此ノ如キヲ見ルノミ。而カモ梅子ノ産額四十俵ヲ下ラスト、霊梅ノ来歴ヲ語ル事頗ル審カナリ。

藩主義和公が描かせた梅“千年木”

  九代藩主・義和公が領内巡見の折り、あるいは参勤交代で江戸へ登る折り、または帰りの際とかに、鬼嵐の藤原家に立ち寄られてじきじきに老梅を見られたものでしょう。それがいつのことなのかの記述は示されていないようです。しかし、藩主・義和公が描かせた梅の図にしても文化年代のことと推察され、真澄の『雪の出羽路』 (文政九年=1826)にみえる「大屋郷大梅図」よりも数年は早いものであることがわかります。

  「千年木」と藩主に言わしめたほどの、たいへんな称賛であったといえましょう。その頃、梅の実百二十俵、やがて衰えを見せても、四十俵を下らず、と言うのですから、たいへんな梅の木であったことを書き残すものといえます。(註=写真・「梅“千年木”」〈絵図〉は、『大屋郷の歴史』柴田秋太郎著より、お借りしたもの。)

  彦右衛門家の「梅」は広く知られるところですが、古い「鎗」で知られた平右衛門家の「茶の木」についてはあまり知られていないようです。

  阿部平右衛門家の現当主・平治氏に「茶の木」についてお聞きすると次のようです。

「もとの古い家の頃は、庭先の一番手前に“茶の木”が一列に植えられてあったもの。家の建て替え、また新築などのため、現在は敷地内の果樹畑と隣の正伝寺さんとの境に、“茶の木”を生け垣風に植え替えてあります。その“茶の木”の由来については確かな言い伝えは残されてはいないようです。ただ、ひとつ言えることは、阿部家はもともと獣医を業としていたと言い伝えられていますから、そのことと関係があるのかも知れません。」

  なるほど、阿部家のもうひとつの顔といえるものが浮かび上がるようです。そのことを伝える、「郷土先人調」(昭和十四年三月・平鹿郡教育会研究会編/『横手市史』編纂室蔵)のなかに『阿部平右衛門翁』が次のように記されています。

  阿部平右衛門翁  平鹿郡榮村大屋新町

  氏は文政十一年(1828)正月八日榮村大屋新町八十三番地に生れ、獣医を業とし、明治三十八年(1905)九月五日八十八才を以て没した。氏の少壮時代は未だ獣医学の発達極めて幼稚なる時家業を継ぎて日夜研鑽怠らず率先斯道の発展向上に終始し、其の功績を今日に遺した。

  明治十五年本県に於て始めて獣医学校の創設を見るや率先して一子政章氏を入学せしめ、卒業後明治十八年九月私費を以て十文字村に獣医学講習所を開設し、父子共々に子弟の教養に当り、専ら人材の育成に力を致した。一方県南三郡及岩手県の一部に渉り実地病馬の治療に当り、其の卓越せる技術を傾倒して幾多難症の施療をなし実績大にあがり時の権威岸本博士をして賛嘆せられたること一再に止らない。晩年には岩手県廳の招聘に依り屡々三本木牧場等に出張し、病馬の治療に其の特技を揮ひ、其の他馬匹改良等国家的貢献を為したる功績大なるものがあり、氏を獣医の神様と呼んださうである。尚氏の門下生にして氏の志を継承し現時に至るもの陸軍獣医官、獣医開業者、官界奉職者等十余名の多きに達して居る。

  なお、阿部家には、獣医を生業とした頃の薬研(やげん)、また小箱のたくさんついた薬種箱などが残されています。病馬の治療には欠かせない道具のひとつだったことをうかがわせます。「茶の木」の“茶の葉”なども当時の漢方医学的な必要から植栽されたのではないかと考えられます。阿部家の獣医の生業も古代からであったものなのか、また、藩政期に入ってのことなのか、くわしくは不明なのですが、“茶の木”の植栽とむすびつくことは確かといえましょう。藩政期、佐竹氏の国替えにともなって能代に近い桧山での武士団による茶の栽培が知られます。茶の栽培の北限ということでしょうか。阿部家の“茶の木”の植栽は、もともとの薬用とは別に、“茶の木”の花を愛でる風雅の心あってのことだったかも知れないし、また、自家製のお茶を飲むことへの愛着あってのことだったのかも知れません。彦右衛門家の“梅”、平右衛門家の“茶の木”に、それぞれの時代は別としても、京に近い生まれ故郷へのふかい思慕のはたらいているのを感じてしまいます。

  藩政期の文政十一年(1828)生まれの『阿部平右衛門翁』についての同家の戸籍を示す貴重な資料も残されています(これは、『祖国梵随和尚物語』・佐々木志朗著よりお借りしたものです)。

阿部家の戸籍を示す資料


  『平右衛門翁』の兄・阿部梵随がみえ、“学徳兼備の名僧・天徳寺四八世”とうたわれたほどの人物とされます。地元の「栄村郷土誌」にこの《名僧阿部梵随》が記されています。

  名僧阿部梵随

  栄村大屋新町字鬼嵐ニ、該地開闢以来ノ獣医アリ、平右衛門卜云フ。祖先ハ天長年間、鎮守府将軍小野春風ニ随ヒ来リシモノヽ由、梵随ハ平右衛門ノ二男ナリ。齠齢ノ時ヨリ才思凡ナラズ。九才ノ春頃、本人ノ希望ニヨリ同郡阿気村重福寺ノ住職某ノ徒弟トナリ、鬢髪ヲ剃除シ小僧タルニ、俊才ノ世評漸ク高シ。師僧ハ当時国王ノ菩提所天徳寺恵海順叔ノ弟子ニ移シ、見仏問法ヲ修行シ…(中略)…進テ正洞院ニ長ク住職シ、終ニ天徳寺ニ住職タリ。詩学ハ晩唐ノ句調ニ倣ヒ五三堂ノ風ヲ好ミ、書ハ菱湖ノ流ヲ汲ミ深沢菱潭等ノ筆意ヲ研究シテ、草、行、真ヨリ篆隷ヲ能クシ、就中扇面ノ書ハ得意ニシテ近国ニ能書ノ声高シ。明治十六、七年頃ハ秋田師範学校習字科ノ教員トナリ、其の名益々馨シク、七十才ニシテ死去セリ。

  この資料でも、まっさきに「該地開闢以来ノ獣医アリ」としているほどですから、古くから獣医を生業としていた平右衛門家であったことがわかります。それに“学徳兼備”の名僧梵隋です。佐竹家菩提寺天徳寺四八世、さらに書の道に秀で、秋田師範学校の習字科教授をつとめたとあります。平右衛門家の血筋の並々でないことを知らされます。

  いま、茶の木は屋敷内の果樹畑と隣りの寺苑との境に、生け垣風に植栽されていて、年を経たしずかなたたずまいを見せています。

  茶の木は暖地に栽培されること多く、雪の多いこの地で育つことは難しいものがあったに違いありません。ユキツバキは別として、ツバキ科とされる茶の木にとって、なにより寒さと半年に近い雪に耐えねばならなかったのですし、そのことに耐えて耐えて、いまの茶の木があるのですから。大きく成長することはなかったとしても、かならず花を咲かせ、実をつけ、そして実を散らして、いまある群生を守りつづけた茶の木といえましょう。かなり広い敷地内の一角ですから、なににもじゃまされずといったふうに、自然そのままの姿の茶の木の一群落を目の前にすると、なにか厳粛な思いのこみあがるのをおぼえます。

  この目で確かめたいと、おじゃましたのは初冬の日の午後。秋の末から初冬にかけて咲くという茶の木の花が、いまをさかりと白い小さな蕾をみせていました。はなやかさではなく、なんとも可憐で、いまにもかわいい音をはじけさせて黄色い蘂をみせるかのような、小指の先ほどの白い蘂たちが、「わたしにだって、ここ鬼嵐の地に根をはり、花咲かせてきた、自然のいとなみというときが、流れているのですよ。」と語りださんばかりに。

  玄関前に広がる庭園の、池があるその一角にも茶の木の一株が植えられてあるのをみます。なにか平右衛門家の象徴を感じます。

  当主平治氏よりお聞きしたのでしたが、祖母ご存命の頃は製茶もされておられたといいます。現代は喫茶のほかにも茶の葉の効用がみられるようで、これからが期待されるのかも知れません。

  『薬草カラー図鑑』に“チャノキ”の項があり、そのおしまいに次の一文があります。

  チャノキの古木は、鹿児島や静岡によく見られるが、古木として天然記念物に指定されているのは、佐賀県藤津郡嬉野町下不動山にあり、「嬉野の大チャノキ」の名で有名。樹齢は三〇〇年余という。

  いつの日かの「鬼嵐の大チャノキ」の夢もみたいものです。梅の「千年木」といっしょに。


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