山と川のある町 歴史散歩

第一章 御嶽山と盆地

(2) 白滝観音

  御嶽山にかかわる、いくつかの古記録のなかに、「白滝観音」がかならずといっていいほどに記述されているのを読むことができます。そのひとつに次の記述があります。

…滝壷の内に湯泉あり、かるがゆゑに御神の神号を塩湯彦ノ命とは申シ奉也。また此白滝の観世音は定朝が作也。

……出羽六郡に卅三番ノ札処巡礼の霊場を定めたり。是万徳長者保昌薙髪して保昌房と名のり此寺巡りの事を創めて、先此白滝を一番とせり。また、此あたりはもと御嶽の神の奥の院といへり、御嶽ノ社は万徳長者の産神也といへり。……


「熊野三社鳴見沢由来」《『雪の出羽路』所収》

  「御嶽の神の奥の院といえり」と言うのは、「滝壷の内に湯泉あり」の白滝を指します。御嶽山の南面のけわしい崖にみられる白滝なので、「奥の院」と言うとしています。この古記録が示すように、滝壷には湯も湧き、また塩気を含むこともあって、祭神の「塩湯彦」の名付けとなったとされます。現在、この白滝まで登れると言われますが、軽装ではとても無理でしょう。いくつかの苔むした石仏がみられるとは言われますが、古記録のいう「白滝観世音」そのものは、風化のためか残されてはいないようです。一千年に近い時空を超える滝壷、また岩々の自然の風化そのものさえも激しいばかりでしょうから。

  こうしたいくつかの古記録に共通するものとしてあげられるのが、次の二点です。

  ① 出羽六郡に観音を祀る三十三番の霊場を定めたこと。
  ② 万徳長者保昌(やすまさ)が薙髪して保昌房(ほうしょうぼう)と名乗り、この寺巡りのことをはじめて、この白滝を第一番と定めたこと。

  それぞれの古記録では、長者名が万徳であったり、万福であったり、また地福であったりさまざまです。それに、観音を祀る三十三の霊場を定めたとする、その年代も、またまちまちですが、およそ、長久年中(1040~43)とされます。時代は十一世紀の初頭、平安後期に位置します。

  ②の保昌房については、その主な古記録での「白滝観音の由来にかかわる伝承上の人物関係図」を『山内村史』から引用すると次のようです。

白滝観音の由来にかかわる伝承上の人物関係図


  どの古記録でも、保昌房(坊)は御嶽山祭神塩湯彦を祖神とします。祖神は盆地開拓のリーダーであり、産土神であったことを語っています。やがて、長者となり、そのつながりを明らかにしています。

  こうした古記録のなかで、「出羽六郡三十三所巡礼札所并縁起」があります。単に巡礼記でないところに、この『縁起』のもつ特色があるといえます。ここではそのあらましを紹介するのですが、その書き出し部分が次のようです。

  一 平鹿郡仙北郡両郡の境杉沢川実入野菩薩、祭神は近江国竹生島弁才天女也。……寛弘二乙巳年(1005)九月九日、ト部大連の末流万徳長者致尚、国家安全の為守護神と崇処也。

  是に依て、此川上岩岨と正淵の上に宮殿を建立して南向也。社地東西二百間、南北二百八十間、松杉の内に宝殿東西二十間、南北七間也。楼閣は三十三間、岩岨の上に六間四間の舞殿、御湯殿は岩を切通也。鳥居は其儘の石を用ゐ、石檀宝殿に至るまで善を尽し美を尽せり。…略…

  一 …略…地福長者致尚此社に参籠度々に及び、信仰して此社を出でず、宮中の西の方に住居す。…略…

  ト部大連(うらべおおむらじ)や致尚については、さきの「人物関係図」で確かめて見てください。「実入野菩薩は弁才天女也」の《弁才天女》(弁財天女)は、「もとインドの河神で、のち学問・芸術の守護神となる女神」と言われるのですから、盆地開拓での水にたよった時代の信仰の姿がまず読み取れましょう。この地が杉沢川実入野です。今の吉沢あたり。ここはあとに三十三番札所の第二番となるところが、縁起の冒頭にまず語られているのです。

  ここでの要点をふたつあげます。ひとつは、御嶽の塩湯彦につながる万徳長者致尚が、「国家安全の為守護神と崇処也」(註=〈国家安全〉の〈国家〉とは、ここでは〈自分たちの国、つまり出羽の国〉を指します) 〔御嶽の祖神を崇め、守護神とする、自国を守り土地を守る〕とする観音信仰が、一00五年とされる時代を背負って語られていくことに重要な意味があるということです。

  ふたつめは、「川上岩岨と正淵の上に宮殿を建立」のことが語られ、広大な社地のなかに、宝殿・楼閣・舞殿・御湯殿、それに鳥居・石檀・宝殿に至るまでの「善を尽くし、美を尽くし」という信仰世界の豊かな形をこの地上に描き出していることです。この広大さといったものは別にしても、観音信仰に深く帰依していく長者致尚の信仰世界の内面が語られているとみてもいいでしょう。

  社地・宮殿の広大・偉容さは伝承ですから、そのままというわけにはいかないのですが、吉沢川と横手川をふくむ西の方の大鳥居山が彷彿されます。この時代、大鳥居山の柵は清原氏の城として機能していたものと考えられましょう。

  ところで、この縁起での、保昌坊とその父との係累を示すと次のようになり(下図右)、あきらかに清原一族であることわかります。(『三内村史』上巻より)

地福長者と保昌坊の係累(右)と清原一族の係累(左)


  保昌(やすまさ)は、もともと清原一族の貝沢三郎武道の孫であり、その父の名は伏せられています。清原宗家の幾人かの係累の名も伏せられるのが目立ちます。宗家の義父の名が地福長者致尚。

  さらに、そのおかれた時代に重ねてみせるのが、「清原一族の係累」です。これも『前書』からの引用です(上図左)。

  保昌は髪を切って僧となり、観音信仰にふかくすがって、出羽六郡に三十三観音を置くことをします。そのあとを地福長者・清原宗家の長致尚が六郡をくまなく巡礼するなど「国家安全の為」の信仰にふかく入り込むのが語られます。その最後は、金沢ノ柵落城と暗にかかわるかのように「致尚、天狗にさらわれて行方知れず」とされます。清原宗家の長の最後として語られるのですが、どこまでも清原の名は伏せるかのようです。当の保昌坊については、その最後は語られないまま終わりとなります。

  この『縁起』にしたがえば、史実としての年代とのずれは見られますか、実入野菩薩として弁才天女を祀ったとされる寛弘二年(1005)から、金沢ノ柵落城(清原氏滅亡)の寛治元年(1087)までおよそ八十年、保昌坊が出羽六郡に三十三観音を祀ったとされる長久三年(1043)からは、わずか四十年にも満たないことがわかります。「国家安全の為」を祈った観音信仰は清原一族にとっての時代的な不安、危機のあらわれであったとみていいでしょう。中央支配に手を貸しながらも時代の危機、存亡を必死に見据えたにもかかわらず、清原一族は時代の非運をまのあたりにしてしまうのです。

  この『縁起』は、その縁起、その由来を語ることから逸脱し、時代の非運の頂点・金沢ノ柵落城(清原氏滅亡)を語ることをしてしまいます。

  白滝観音をはじめとする盆地の三十三観音は、御嶽の神の子としての自らの土地への祈りであり、そうであったからこそ、この『縁起』は、清原一族への鎮魂の譜とされるものであったことをものがたるものといえましょう。

  しかし、清原一族のひとりであった勝者・清原清衡は、そのあと藤原姓を名乗り、平泉に拠点を置き、あの有名な中尊寺、毛越寺のような仏法聖地をおこすのですが、それは、横手の大鳥居柵を拠点としたと考えられる三十三観音信仰と無縁ではないでしょう。たしかに出羽に根を張った清原一族は滅亡はしたのですが、御嶽を祖神とした三十三観音信仰そのものの形は違っても、浄土信仰の世界は受け継がれたともいえるのです。

  このことは、いま、大鳥居山発掘調査をつたえる「横手市報」(平成19年・4月)に発表された〔特集“往古の戦い”~御三年の合戦を行く~〕(市教育委員会教育総務部文化財保護課・嶋田祐悦氏)のインタビュウ記事の次の指摘に耳を傾けたいと思います。

…平泉が今、世界遺産に登録されようとしています。その平泉も横手で起こった「後三年の合戦」をなくしてはありえませんでした。平泉の中尊寺や毛越寺のような寺院や藤原氏の政庁といわれる柳の御所跡は偶然にできたものではありません。清衡が「前九年・後三年の合戦」を経てたどりついた「浄土思想」の理想郷である平泉を築いたことが最も大きい要因ですが、この横手にいた清原氏がそのような文化を持っていたことも考えられるのです。

  つまり、この横手には世界遺産につながる日本史の舞台が眠っているのです…。

  これまで伝承のみを語り過ぎてきたのですが、平成十九年(2007)の発掘調査に大きく期待したいものです。


*つけたし その①

  藩政期(江戸時代)に入って、御嶽山の神職を務める三梨家代々(外山に住)による社務にかかわる記録としての『御山日記』があります。その文化十年(1813)の『御山日記』に、白滝観音についての次の記録が残されています。

…もとの白滝の御滝より上、小沢の阿んづるに三十三観音を立て、その石屋にお祀りする。この願主の頭は、横手正平寺(の住職)で、ほか男女百人ばかり。

   『御山日記』のこの記述と、『正平寺古記録』(『雪の出羽路』所収)のうち「正平寺累代」の項の終わりにある次の記述とが符合する、と『山内村史』は指摘します。

正平寺二十世法連海寿和尚、保昌のあとをたづね、峰のしら滝の片岨に卅三躰の観音の石菩薩安置し、また、金毘羅の石形、保昌の石形を作りて安置。此和尚文政戌三月某日遷化せり。

  「文政戌(年)」(文政九年=1826)が手掛かりとなります。海寿和尚の死没と、生前の白滝観音再興のあった文化十年(1813)とは、およそ同年代とみていいようですから、このふたつの記述は符合するわけです。それにしても、『御山日記』の「この願主の頭は横手正平寺で、ほ か男女百人ばかり…」という、この時代の観音信仰のさかんなさまが彷彿させられます。

  ここでの記録では、その昔、長久年中とされる保昌坊によって祀られてから、およそ八〇〇年後の再興ということになります。江戸時代後期になって、三十三観音信仰のまた、さかんになったとされる確証の一つといえるでしょう。


 *つけたし その②

  なお、平成十八年度「横手郷土史・史料」81号の、「白滝観音の新事実」(半田作治氏)によると、これまで確認されてなかった白滝の如意輪観音の座像に

建立昭和五年七月二十日
開眼導師大師無心師
発起人石橋金太郎氏

  の刻字をあたらしく発見したと報告されています。「石橋金太郎氏」はもと寺町通りで「そば屋」を経営されていた方ということのようです。これなどは、白滝観音霊場でのもっとも新しい観音石仏像であると思われます。

  いま、白滝観音霊場への登り口に、市教育委員会による大きな案内板がでんと建っています。


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