第一章 御嶽山と盆地(2) 白滝観音御嶽山にかかわる、いくつかの古記録のなかに、「白滝観音」がかならずといっていいほどに記述されているのを読むことができます。そのひとつに次の記述があります。 …滝壷の内に湯泉あり、かるがゆゑに御神の神号を塩湯彦ノ命とは申シ奉也。また此白滝の観世音は定朝が作也。 「熊野三社鳴見沢由来」《『雪の出羽路』所収》 「御嶽の神の奥の院といえり」と言うのは、「滝壷の内に湯泉あり」の白滝を指します。御嶽山の南面のけわしい崖にみられる白滝なので、「奥の院」と言うとしています。この古記録が示すように、滝壷には湯も湧き、また塩気を含むこともあって、祭神の「塩湯彦」の名付けとなったとされます。現在、この白滝まで登れると言われますが、軽装ではとても無理でしょう。いくつかの苔むした石仏がみられるとは言われますが、古記録のいう「白滝観世音」そのものは、風化のためか残されてはいないようです。一千年に近い時空を超える滝壷、また岩々の自然の風化そのものさえも激しいばかりでしょうから。 どの古記録でも、保昌房(坊)は御嶽山祭神塩湯彦を祖神とします。祖神は盆地開拓のリーダーであり、産土神であったことを語っています。やがて、長者となり、そのつながりを明らかにしています。 一 平鹿郡仙北郡両郡の境杉沢川実入野菩薩、祭神は近江国竹生島弁才天女也。……寛弘二乙巳年(1005)九月九日、ト部大連の末流万徳長者致尚、国家安全の為守護神と崇処也。 ト部大連(うらべおおむらじ)や致尚については、さきの「人物関係図」で確かめて見てください。「実入野菩薩は弁才天女也」の《弁才天女》(弁財天女)は、「もとインドの河神で、のち学問・芸術の守護神となる女神」と言われるのですから、盆地開拓での水にたよった時代の信仰の姿がまず読み取れましょう。この地が杉沢川実入野です。今の吉沢あたり。ここはあとに三十三番札所の第二番となるところが、縁起の冒頭にまず語られているのです。 保昌(やすまさ)は、もともと清原一族の貝沢三郎武道の孫であり、その父の名は伏せられています。清原宗家の幾人かの係累の名も伏せられるのが目立ちます。宗家の義父の名が地福長者致尚。 この『縁起』にしたがえば、史実としての年代とのずれは見られますか、実入野菩薩として弁才天女を祀ったとされる寛弘二年(1005)から、金沢ノ柵落城(清原氏滅亡)の寛治元年(1087)までおよそ八十年、保昌坊が出羽六郡に三十三観音を祀ったとされる長久三年(1043)からは、わずか四十年にも満たないことがわかります。「国家安全の為」を祈った観音信仰は清原一族にとっての時代的な不安、危機のあらわれであったとみていいでしょう。中央支配に手を貸しながらも時代の危機、存亡を必死に見据えたにもかかわらず、清原一族は時代の非運をまのあたりにしてしまうのです。 …平泉が今、世界遺産に登録されようとしています。その平泉も横手で起こった「後三年の合戦」をなくしてはありえませんでした。平泉の中尊寺や毛越寺のような寺院や藤原氏の政庁といわれる柳の御所跡は偶然にできたものではありません。清衡が「前九年・後三年の合戦」を経てたどりついた「浄土思想」の理想郷である平泉を築いたことが最も大きい要因ですが、この横手にいた清原氏がそのような文化を持っていたことも考えられるのです。 これまで伝承のみを語り過ぎてきたのですが、平成十九年(2007)の発掘調査に大きく期待したいものです。 *つけたし その①藩政期(江戸時代)に入って、御嶽山の神職を務める三梨家代々(外山に住)による社務にかかわる記録としての『御山日記』があります。その文化十年(1813)の『御山日記』に、白滝観音についての次の記録が残されています。 …もとの白滝の御滝より上、小沢の阿んづるに三十三観音を立て、その石屋にお祀りする。この願主の頭は、横手正平寺(の住職)で、ほか男女百人ばかり。 『御山日記』のこの記述と、『正平寺古記録』(『雪の出羽路』所収)のうち「正平寺累代」の項の終わりにある次の記述とが符合する、と『山内村史』は指摘します。 正平寺二十世法連海寿和尚、保昌のあとをたづね、峰のしら滝の片岨に卅三躰の観音の石菩薩安置し、また、金毘羅の石形、保昌の石形を作りて安置。此和尚文政戌三月某日遷化せり。 「文政戌(年)」(文政九年=1826)が手掛かりとなります。海寿和尚の死没と、生前の白滝観音再興のあった文化十年(1813)とは、およそ同年代とみていいようですから、このふたつの記述は符合するわけです。それにしても、『御山日記』の「この願主の頭は横手正平寺で、ほ
か男女百人ばかり…」という、この時代の観音信仰のさかんなさまが彷彿させられます。 *つけたし その②なお、平成十八年度「横手郷土史・史料」81号の、「白滝観音の新事実」(半田作治氏)によると、これまで確認されてなかった白滝の如意輪観音の座像に 建立昭和五年七月二十日 の刻字をあたらしく発見したと報告されています。「石橋金太郎氏」はもと寺町通りで「そば屋」を経営されていた方ということのようです。これなどは、白滝観音霊場でのもっとも新しい観音石仏像であると思われます。 いま、白滝観音霊場への登り口に、市教育委員会による大きな案内板がでんと建っています。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
Copyright (C) since 2005, "riok.net" all rights reserved |