山と川のある町 歴史散歩

第二章 季節と祭り

(4) かまくら

  『かまくら』は横手の冬を代表する旧正月行事のお祭りです。

  昭和十一年(1936)二月七日、ドイツの建築家ブルーノ・タウトが来横して、『かまくら』を見て、「すばらしい美しさだ。こんな美しいものを私は、かつて見たことがない」(『日本美の再発見』)と感嘆させたほどです。いまでは広く全国に知られる雪祭りです。

  この「かまくら」について、少し散歩してみることにします。

  タウトを感嘆させた「かまくら」とは違って、明治四四年(1911)頃、編纂された『横手町郷土誌』の《年中行事》の項に、「鎌倉」(火祭り)の記述があります。

  十四日 士家にては、雪を以て円形の屋根無き土蔵の如きを造り、之に炭俵の如きを積み込み、この夜之を焼きたり。之を「鎌倉」といへり。 (後略)

〈内町の士族の家〉ではということのようで、外町のことには触れていません。〈屋根無き土蔵の如き〉とか、〈炭俵の如きを積み込み、…之を焼き〉など、いかにも「かまくら」の古いかたちを彷彿させます。古くは《火祭り》であったことです。

  昭和八年(1933)刊行の『横手郷土史』での項では次のようです。

  鳥遂(とりおい)

  之は士族町や市中にてはせず、町の端々の農家の児童らがするのである。先ず前日頃から児童等が皆入る得る程の大きさのカマクラを造る。カマクラとは、踏み堅めた雪を以て高さ六七尺の竈形のものを造るのである。中で児童の遊ぶときは萱簀などを掩う。時には上も雪で掩うて麹室の如く造ることもある。他町村にては之を雪穴と称するもある。十五日の夜には児童らは家々に入って鳥遂に来たるを告げ…(中略)…かくして遂ひ終へて後各カマクラに集まり、甘酒を暖め餅を灸りなどして之を飲み食ふのである。(後略)

  鎌倉(かまくら)

  両三日前から青年少年相交って、人家より稍隔たった所に堅固なカマクラを作って準備をし、男子のある家などは長い紙旗を竹に付け、之に左の如きものを書いて門に立てる。
   天筆和合楽、地福円満海。
   あら玉の年の始に筆とりて萬の宝かきぞ集むる。
十五日には各家の門松をこのカマクラに持ち来って積む。少年青年は手分して、各家から炭俵や米俵などを乞ひ受けて、またこの中に積み、夜に入ると少年も青年もかの旗を翻してカマクラに集り、積んだ門松や炭俵に火を付ける。忽にして烟焔天を焦すと、或はかの旗で火を打ち、或はその先で燃える炭俵等を引っ掛けて振り廻す。而して叫喚の声天地を動し、その賑やかな事実に言語に絶したものである。

  《鳥遂(とりおい)》は町はずれの農家の子どもたちの行事で、やはり「かまくら」が作られ、雪穴とも言う、とあります。《鎌倉(かまくら)》については特定はしないのですが、内町らしい書きぶりです。

  このふたつは、「かまくら」のもつ遺習といったかたちを示しているわけですが、〈火祭り〉の記述には、「…而して叫喚の声天地を動かし、その賑やかな事実に言語に絶したものである」にみられるように、現に今行われているというのではなしに、昔はそうであった、という懐旧風な書きぶりがみられます。この記述は、そのままウ呑みには出来ないのではないでしょうか。

  「かまくら」の古い記録のひとつに文化一一年(1814)に作られたとされる、『諸国風俗問状答秋田』(しょこくふうぞく といじょうこたえ あきた)があり、そのなかに「かまくら」もあって、〔「図説・秋田県の歴史」〕は、当時の絵図ものせて説明しています。

「風俗問状答」にみる秋田の正月 図版① 「風俗問状答」にみる秋田の正月

図版①(左図) 一月十四日に行われる左義長(さぎちょう)の火祭りは種々の正月祭りの中心行事であった。

図版②(下図) 久保田内町(くぼたうちまち)の鎌倉は、その祭壇の役割をもち、夕暮れにここで燃やされた火が空(から)米俵にうつされて、元服前の子供たちが、これを振り回し…。
*[図説・秋田県の歴史]から。説明の文は図説からのもの。


「風俗問状答」にみる秋田の正月 図版②


  主要な点を拾うと次のようです。

……久保田内町の鎌倉はその祭壇の役割をもち、夕暮れにここで燃やされた火が空(から)の米俵にうつされて元服前の子供たちがこれを振回し、ほらを吹く者、鳥追いの歌をうたう者、ホタキ棒をもって女性の尻を打つ嫁祝いのごとき行事も交(まじ)っていた。……楢山鎌倉や角館町の火振り鎌倉がこれに近い形で現存する。……

  古い「鎌倉」のかたちは、横手の「かまくら」と同じように、正月の門松類を焼くなどする〈左義長〉〈どんど焼き〉、それに〈鳥追い〉も加わる複合的な“火祭り”だったことがわかります。

  さて、「かまくら」のもとのかたちを古記録などでみてきたのですが、その由来そのものとなると足がすくんで前へ進めなくなってしまいます。

  これまで、「かまくら」の由来・語源については、例えば次にみられるように、

……「かまくら」の語義は判然としないが、はやしの出だし言葉からきているという説、四すみの壁の中で火を焚くための「釜蔵」(かまくら)、または「神蔵」(かみくら)から発したという説などがある。横手のかまくらも左義長(火祭り)と水神信仰が合体したものであろう。

(「秋田大百科事典」)

  といった考察が一般的でした。雪の「釜蔵」、雪の「神蔵」といった目の前の事物が論究の対象でしかなかったといえましょう。さきに、「金沢ノ柵」の項で、〈鎌倉権五郎と五霊信仰〉について触れたところでしたが、ここまできてしまって逃げるわけにはいかなくなってしまったようです。といっても、わたしにそんな力があるわけではないし、《秋田県史編纂室=宮崎 進氏》の考察にすがるしかありません。(詳しくは、氏の『“かまくら”の歴史と語源』・『“かまくら”起源考』〈横手郷土史資料30号〉をご参照ください。)

  「かまくら」の由来・語源をさぐるために、わたしなりに次の疑問から述べてみたいと思います。

  秋田県下に広く行われる「かまくら」行事のひとつに、“火ぶりかまくら”があります。角館の小正月行事として知られています。この“火ぶりかまくら”の不思議から始めたいと思います。

  前々からテレビなどで“火ぶりかまくら”を見てきたのですが、横手のような「かまくら」(雪でつくった…)それは画面には出てきません。[かまくら]が出てこないのに「かまくら」というのはどうしてだろうという疑問をこの“火ぶりかまくら”を見るたびに不思議に思ってきたものです。

  この“火ぶりかまくら”を調べてみると次のようです。

  *火ぶりかまくら

  ……秋田市楢山のかまくらは、火をつける時に鳥追い歌を歌う事や、河辺郡では、かまくらとも鳥追いとも両様にいったことを考え合わせると、かまくらの火祭りの小屋で、祭りのための忌屋(いみや)の性質を持った雪室であろう。火ぶりかまくらは、その性質を持った豊作行事の一つである鳥追のために火祭りだけが残ったものと考えられる。

(「秋田大百科事典」より)

  秋田市楢山の「かまくら」のように、「火をつける時に、鳥追いの歌を歌う」といった、「かまくら」のもっていた古い時代のかたちが見えてきます。「かまくら」のもっていた意味や、祭りのかたちは時代と共に変化しつづけたことのひとつの証しを“火ぶりかまくら”にも見ることが出来るわけで、ですから、“火ぶり”は、小正月の「かまくら」行事の主要なひとつの意味とかたちを持っていたものであったことがわかります。

  まず、ひとつの不思議がなんとか解けたかっこうです。

  もうひとつ。

  小正月行事「かまくら」の祭神は「だれ」だったでしょうか。横手の「かまくら」では、今は「オシズの神様」(水波能売神〈みずはのめのかみ〉)です。侍町の「かまくら」の祭神は、『鎌倉大明神』であったことは古記録などで知られています。

  しかし、藩政期の文化年代(1804~17)の「諸国風俗問状答秋田」などにみられるように、「紙の旗に、鎌倉大明神と書候はいかなる神にて候や」と疑問にされていることは、これもなんとも不思議なことに思われます。ところが、これがなんとも大事なことで、これは、鎌倉神(大明神)と五霊信仰とが結びついた古い時代の意味とかたちがすでにうしなわれていたことの証しとされるというのです。さきの宮崎進氏の論考をお借りすると次のようです(くわしい長い論稿なので、ここでは次の部分 のみ)。

  ○ 鎌倉の鳥追いは、頭切って塩付て塩俵へうちこんで、佐渡が島へ追ってやれ。佐渡が島近くは、鬼が島へ追ってやれ。

  文献から見るとカマクラは、左義長に鳥追、道祖神祭が結合し、さらにプラス・アルフアというべき複合行事であった。左義長は火祭りであり、祭に火を焚くのは神を招く古習の方式だった。さほど遠からぬ昔までは、旧正行事として、追っておかぬと安心できないほどの鳥の害があったための鳥追である。道祖神はサエノカミともいって、左義長と結び付いたところが多かった。

  この三つの複合行事のほかプラス・アルフアとはなにか。雪室の幟に象徴される“鎌倉大明神”である。

○ 鎌倉神は要するに、古代信仰の“五霊”が五郎(鎌倉権五郎)に転訛し、英雄伝説と結合してカマクラに祀られた伝説神である、と解釈する。

○ 昔の行事や遺習は、社会が進むにつれて形式だけが残って、われわれの先祖が知っていた伝承的意味は忘れ去られるのが常である。この鎌倉大明神の場合は、寛政・文化の識者にも既にその正体が解らなくなっているから、鎌倉神がカマクラ行事に習合したのは相当古い時代であることはいうまでもあるまい。

○ 小正月行事である左義長(火祭り)への権五郎信仰の結合は、秋田独特の民俗である。両者の習合の歴史的契機は、興味ある民俗学的課題であるが、私にはまだ解けない。しかし、古代信仰の正月行事への習合によって旧正行事の祭神となり、鎌倉大明神の省略が“かまくら”の語源となったということは、大体疑いないところであろう。

(「“かまくら”の歴史と語源」宮崎 進=県史編纂室/より)

  「社会が進むにつれて形式だけが残って、われわれの先祖が知っていた伝承的な意味は忘れられるのが常で…」…鎌倉神のカマクラに習合したのは、かなり古い時代であろう、という指摘は的を射ています。「鎌倉大明神」の省略の「鎌倉」こそ、「かまくら」の語源なのだとするこの論究には民俗学的な論のすすめ方、そのふかさを感じます。残された「両者の習合の歴史的契機」のこれからの解明のたのしさも期待されます。胸のつかえのとれる明解な『“かまくら”語源考』です。

  ふたつめの疑問もみごとに解けました。

  「事物の意味は…時とともに限りなく変化する」(民俗学者=柳田国男)のことばが示すように、横手の「かまくら」のもつ意味とかたちの大きな変化にはあらためておどろかされるというものです。

  明治の御一新という時代の変化が、侍町(内町)の「かまくら」(火祭り)を、なんとも静かでウェット型の「かまくら」(水神様)に変えたということにみられるとおりです。もちろん人家が混み合うようになって、(火祭り)の危険さが増えたことも大きな要因ではあったでしょうが、侍という刀・弓・槍を持つ階級の四民平等の世への変化こそ大きく作用したことは間違いないことでしょう。(火祭り)に変わる(オシズの神さん)への移行はごく自然なかたちで行われていったのだろうと思われます。(火祭り)が時代の変化のなかで消えていくのですが、小正月のたのしさに新しい意味を与えてくれたのは、切実なくらしの願い・夢であった(水神信仰=オシズの神さん)そのものであったわけです。そのもっとも素朴・純朴で、生まれたてのような「かまくら」に出会えたのがタウトだったと言うことが出来ましょう。

  水とのかかわり、その大切さを日常的にからだごととらえていた、川に近い川原町の人たちにとっては、くらしの夢を託す自分たちの「かまくら」の意味をふかくかみしめていったものだったでしょう。その〔水神様〕との結び付きを示す年代、それを〈明治三十年頃〉、いや〈明治二十年頃〉といろいろ言われてきたのですが、そのことを裏付けるもと川原町の古老のお話を聞く事が出来たのです。

  川原町は今は河川改修のため、町名もなくなりましたが、わたしの生まれ育った町です。わたしが生まれたのは大正九年(1920)で、子ども時代は昭和のはじめ頃。五十数軒の町でしたが、町内の中ほどにツルベ井戸があり、朝夕は順番待ちで水汲みをしたものです。夏は、川に下りて顔をあらったり、口をすすいだり、洗濯をしたり…今、なつかしく思い出されます。

  旧正月十五日は、『かまくら』で、町内のその井戸の上には、水神様のお社(おやしろ)を祀り、町内の祭りとしてたいへん賑やかなものでした。そのお社を〔おすず(おしじ)の神様〕といい、他町からの参詣者も多かったものです。ツルベ井戸の隣に大きな『かまくら』をつくり、参詣者は、ここでお神酒をいただき、ゆっくりくつろいで帰ったもの。

  家々での『かまくら』も、それぞれつくられていました。井戸に祀ったお社をちょっと小さくしたお社で、家々の『かまくら』でも祀ったものです。『かまくら』の奥の雪の壁に、そのお社を入れる〔社(やしろ)型〕の穴をくりぬいたものです。今は、お社そのものは「水神様」のお札に変わってしまいましたが、その〔社型〕の神様を祀る雪の神棚はいまも伝えられているようです。

  水道の普及によって、ツルベ井戸がなくなっても、わたしらは昔どおりの大きな『かまくら』をつくって「水神様」をそこに祀ってきたのですが、でも、寄る年波には勝てず、『かまくら』作りが難儀になってしまい、今では稲荷神社(写真①)のなかに安置して、お膳をあげて祀っています(写真②の中央にみえるのが水神様のお社)。「水神様」の名前は《水波能賣神》(ミズハノメノカミ)、女神です。神社名を記した版木があります(写真③版木とお札〈おふだ〉)。ツルベ井戸の頃は、このお札を参詣者はいただいて帰り、自分の家の台所の水甕(みずがめ)の上に貼ったもの。水に対する信仰心がそうさせたものでしょうし、それほど水をたいせつにしたものでした…。

  (*大町下丁・大沢吉之助さん談。大正9年〈1920〉生まれ、七八歳。
   *お話をうかがった日/平成9年2月28日)

  水に苦労したもと川原町の人たちのくらしと、「オシズの神さん」への感謝、そして信仰につながっていたようすがよくわかります。この川原町の「水神様」(お社とお札)に今の『かまくら』のもともとの姿を見ることができます。内町の火祭りの『鎌倉』が、川向こうの外町の「おしずの神様」の祀りとしぜんととけあって(合体して)、今の『かまくら』に変化したものといえます。それもそんなに古くはなく、明治に入ってのことといえそうです。その年代は特定できないのですが、川 原町に残る「水神様のお社」や「祭礼用物入箱」などは明治年代中頃を伝えるといいますから、あるいはそれらを裏付けるものなのかも知れません。

  大沢さんにお願いして、稲荷神社にあるという「水神様のお社」を見せて貰うことができました。また、「祭礼用物入箱」(写真④)には次のような銘がみられました。

《表》水波能賣神 祭礼用物入箱  所有者
明治□(元=のようにもみえる?)年戊子(つちのえね)正月拾五日
《裏》秋田県平(鹿=脱)郡横手大町(下=脱)丁字川原町伊藤 松之助
生出 平吉
伊藤 市松
佐藤 常吉
水波能賣神山田 喜代吉

  〈伊藤市松〉さんが、ツルベ井戸の管理者で、ちょうどツルベ井戸の向かいの家だったそうです。物入箱の銘が明治元年のようにも見えるのですが、〈戊子〉(つちのえね)がはっきりしているのですから、この干支(えと)にしたがえば、明治二十一年(1888)です(この年の2/11に明治憲法公布)。また、「お社」の前に飾る「御神鏡」の裏には次の銘もあります。

明治廿一年子正月十五日願主川越  酉松
〈力川原町

  「祭礼物入箱」の中には、古い祭礼用横幕があり、寄進者名などが見えます。

奉納明治三拾年  旧四月吉日
田中磯吉
田中清之助
四日町下田中 儀助

  祭礼の日、ツルベ井戸に回し、飾ったものでしょう。奉納は四日町下丁の人たちであり、川原町の井戸の世話になっていたことがわかります。

  明治年代の銘のあることからしても、この町の水神信仰の古い名残を示すものですし、町内の井戸をたいせつにし、水神様を崇め、祀る風習が外町のあちこちの町にもあったであろうことをうかがわせます。

  しかし、『かまくら』のなかに、〈水神様〉を祀るようになった年代は、明治中頃と推定されるとしても特定はできません。でも、もともとの火祭りの「かまくら」と、〈水神様〉信仰のふたつの風習が、めぐってくる雪の季節のなかでしぜんととけあうようになったことは、これまで見てきたとおりです。横手の町に人々が住みついたその昔から、人々のくらしのなかの願いや夢のかたちが根付いていったものといえましょう。時代の変化をくぐりながら。

大町下丁 左:写真① 稲荷神社の全景(平成10年2月)
     右:写真② 水神様のお社(やしろ)とご神鏡


大町下丁 左:写真③ 水神様の版木とお札(ふだ)
     右:写真④ 祭礼物入箱のフタ


* つけたし ①

『日本美の再発見』   ブルーノ・タウト

昭和11年(1936) 2月7日(金)

*やゝ長文なので、ここでは主に“かまくら″の部分の記述を拾ったもの。右図はタウト筆“横手のカマクラ”。

……いったいにこの地方の人達は、非常に感じがよい。すばらしい冬景色、町の背後には、高い山々が雪を帯びてきらめいている。積雪の上を行き交う沢山の橇。

……小さな町を歩いてみる、…道路に雪の階段ができていないような所に、子供達のカマクラ(雪室)が造ってあった。カマクラの上には、雪の天井の代りにたいてい竹簀が載せてある。雪だと崩れ落ちる心配があるので、今年は警察で禁じたのである。

  市がたっていた。市は方々の町でかわるがわる毎日のように催され、農民達はここへめいめいの品物を持ってきて販売し、また別の品を買って帰るのである。いろんな面白い売品のなかに、餅で作った玩具もあった。子供達はこれをカマクラの中の龕に供えるのである。頭が白く、胴体を黒と金色とで塗った犬もあれば、赤・緑・黄で彩色した鶴もあり、また茶壷のような形をしたものもある。どれも非常に小さくて、一番大きな犬でも、高さがせいぜい四センチぐらいなものである。とにかく非常に独創的だ。

  一時間半ばかり午睡して眼を醒ますと、やがて夕食である。ご馳走は昼よりももっと豊富だ。それからカマクラを見に町へ出た。すばらしい美しさだ。これほど美しいものを私は曾つて見たこともなければ、また予期もしていなかった。これは今度の旅行の冠冕だ。この見事なカマクラ、子供達のこの雪室は!

  カマクラのなかにしつらえた雪龕には水神様を祀り(この辺はいったいに水に乏しいのだ)、蝋燭をともし、お供物がそなえてある。カマクラの床に敷いた蓆の上にむき合って座っている子供達の間には焜炉が据えてあり、ぐらぐら煮えかえる汁や甘酒などがかけてある。外からカマクラの中を覗くと、六歳ぐらいの童児と五歳ぐらいの童女とが、それぞれ主人役に主婦役として物静かに控えていることもあれば、もっと大勢の子供達が集まっているところもある。あるいはまた、さらに年嵩な少女や少年が二人ずつ座っているカマクラもあり、時には子供達のほかに、大人の婦人が介添えしていることもあった。

  雪中のしずかな祝祭だ。いささかクリスマスの趣がある。空には冴えかえる満月。凍てついた雪が靴の下でさくさくと音を立てる。じつにすばらしい観物だ! 誰でもこの子供達を愛せずにはいられないだろう。いずれにせよこの情景を想い見るには、読者はありたけの想像力をはたらかせねばならない。私達がとあるカマクラを覗き見したら、子供達は世にも真面目な物腰で甘酒を一杯すすめてくれるのである。こんな時には、大人はこの子達に一銭与えることになっている。ここにも美しい日本がある、それは--およそあらゆる美しいものと同じく、--とうてい筆紙に尽すことはできない。

* つけたし ②

  昭和二十八年(1953)二月二十八日の東京発九時半の鳥海号寝台車で、横手を訪れた名文家・内田百閒(ひゃっけん)の「かまくら」を見聞した次の一文があります。(「第二阿波列車」・〈雪解横手阿波列車〉 ・旺文社文庫刊)。

…この辺りの川の名は旭川といふさうである。
今は旧暦の小正月で、昨夜は満月の正月十五日であった。横手に「かまくら」といふ行事があって、その話はこの前来たときにも聞いたが、今、駅から来る途中、道端で幾つも見た。雪でつくった小さな雪の家で、旧正月十五日の晩に、子供たちがその中へ入って水神様のお祭りをする。雪のほら穴の中で蝋燭の灯をともし、みかんや林檎やお菓子を並べ、甘酒を沸かし、藁のむしろを敷いた上に座って遊ぶのださうで、寒いたろうと思うけど雪の中は暖かいといふ。子供は自分のかまくらを出て、よそのかまくらを訪問し、そこの水神様にお供物をする。横手の市中のかまくらの数は三千に及ぶといふ話である。その行事が昨夜済みましたが、惜しい事でしたと宿の者がいった。昨夜のその行事が終わり、子供達が寝た後で、遅くなってから雪のうえに大雨がふったさうである。

(かなづかいは原文のまま)

  宿は大町であったようです。「子供は自分のかまくらを出て、よそのかまくらを訪問し、そこの水神様にお供物をする。…」など、「かまくら」本来のこどもたちの姿が的確に描写されています。もう一日早く来て、蝋燭の灯のゆれる幽玄の「かまくら」をみてもらいたかったものと思われてなりません。


外部リンク

単語検索


ひらがな/カナ:
区別しない
区別する