第三章 ものと道と(3) 横手木綿 横手木綿の歴史は古いようです。 仙北郡六郷村の豪商栗林家の《万書留覚帳》によると、正徳四年(1714)の〔棚改之時分写〕に、・久保田地織 ・角間川地織、あるいは ・横手地そめ(染) ・横手染むし(無地) ・横手むし(上物)とか、・大森そめ(あさ黄) ・大森上むし(無地) ・大森花いろ などがあり、これに〈京注文さんとめ木綿類〉とともに店売りされていたことがわかる。 木綿染めでは横手が、まずあげられているのがわかります。木綿そのものはどうかというと次のようです。 六郷村の京野又左衛門が、寛永十八年(1641)頃、横手から木綿を仕入れて小売りしている(六郷・京野文書)。 横手木綿と横手地染めともども、早い時期からの横手の産物であったと考えられます。『県史』は続けて、最上家口伝をとりあげます。 横手木綿の起源は、同所最上忠右衛門の口伝によると(横手郷土史)、平鹿郡樋口村から横手に移住して来た野御扶持衆(のごふじしゅう)が、延宝年中(1673~80)に、家計補助のため内職として、当時酒屋であった同家の世話によって始めたことによるものであり、これを親類の久米才助(のち河野に改姓)に染めさせて売らせたところ売れ行きが悪くなく、以後、家中工業として漸次発展するに至ったものである。 このように『県史』は横手木綿の歴史の概要を記述していますが、地元の『横手郷土史』は、口伝をさらにくわしく取り上げています。惜しいことに最上家の口伝のみで、裏付ける古文書資料などほしいのですが、それはそれとして、まずは聞いてみることにします。 最上家は昔は四日町に住し、富裕にして酒造を業として在った。野御扶持衆、延宝年中(1673~80)樋口村より移転した後(…城詰めお米蔵番として野御扶持町に移住)酒を買いにくる者多くあった。一日その二三人の人来ていうよう、頂戴の御扶持のみでは生活するに甚だ困難であれば、何か我々に適した職業をほしきものである、よい職業もあらば教えられたしという。忠右衛門、旦那方、関東におられた時には何業をなされしかと問うに、多くは機織(はたおり)を内職としていたという。忠右衛門しからば織って見給えとて、土崎港から綿一梱買って試みに繊らしめたところ、出来栄えよろしい。これを親類の久米(後に河野と改姓する)才助に染めさせて商店に売るに、(略) 売行悪しくない、故にこの業を大きく営まんと考えた。 なんと目に見えるように語ってくれています。それにしても横手木綿が野御扶持衆とふかくかかわっていたことを知らされます。この人たちは樋口一帯の新田開発に励んだ下級士族とされる人たちの集団でしたが、開田に成功することで城詰めの米蔵番に任用されます。けれども給銀は低かったのでしょう、そこから、最上家との対応が始まったとされます。ですから、野御扶持衆の力あっての横手木綿であったともいえましょう。 口伝はまだつづきます。 士族町にはこの業に従事する者、年々増加し、数年ならずして各町到る所、機杼の声、紡錘の音を聞かぬ日はなきにいたった。既にしてこの業漸く町家にも広まり他町村にも及び、文化・文政の頃には年産額二十万反を産し、米沢、南部等まで輸出するに至り、横手木綿の声名大に高まった。 横手の内町のあちこちから、ハタ織りの音が聞こえたに違いありません。町うちに貸し織具四百七十台もの音が聞こえたというのですから、町がひとつの木綿工場のひびきを持ったものといって過言ではないといえましょう。たいへんな盛況ぶりが見えてきます。横手木綿のこうした発展の背景にいくつかの重要なことをみなくてはなりません。ひとつは藩主義和による国産品奨励・保護政策があったこと、もう一つは、久保田豪商・山中新十郎(増田町出身)による衣料陸路移入禁止の献策があったとされます。こうした時代のなかで「正藍染と紅絞の技巧を加え、(略) 領内産白土と蕨粉を型糊とする模様鮮明で染法も容易な形付染めを案出」などの発展を見せていきます。さきの豪商・山中新十郎は「…明治六年(1873)頃、原価綿の安価入手策として、平和街道、現一〇七号線の開通策を考えた。北上線はこの新十郎の案に沿っている」(『秋田大百科事典』)として、「木綿の道」平和街道のむかしを裏付けています。 |
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