山と川のある町 歴史散歩

第五章 新田開発と沼/堰

一、「沼入り梵天」と“野御扶持方”新墾き (1)

荒処の沼入り梵天行事

「平鹿の文化財」 (平鹿町教育委員会刊)より


はじめに

  もと「野御扶持町」(のごふじまち)は愛宕山に近く、東側がすぐ山、西側が旭川ですぐ土手、こぢんまりとした「山と川のある町」といえるほどで、その奥に市の浄水場のある町です。旭川(横手川)が本郷橋を抜け、山にぶつかり、その浸食で出来た断崖辺がヘグリと呼ばれ、そこに近いので昔はヘグリ町とも言われたところです。

  享保十三年(1728)の「横手絵図」には、モロコ沢から流れる堰の小さな橋をわたってすぐに、「野御扶持町」三十戸の屋敷割りがみられるのですが、実際にはとても無理かと思われるほどに狭い町といえます。

もと「野御扶持町」位置図

⇒拡大図


  しかし、この町は、「秋田県の近世における新田開発史上、特異な例」(『平鹿町史』)として高い評価を誇れる歴史を背負った町として知られています。ところが、こうした歴史的な意味などそっちのけで、便宜主義(あることをするのに都合のよいこと。便利なこと。)の名を借りた「新住居表示/昭和40年実施」によって、このあたり一帯をひろく「上内町」と改称、歴史的な意味など切り捨てられてしまった町になっています。

  この「野御扶持町」という町名の起こりが、平鹿町醍醐字新処(あらとこ)に伝わる「沼入り梵天」とふかいかかわりをもっていることは、あまり知られていないようです。合併前の市の一番南端、栄地区の新藤・桜沢・外ノ目集落の西側に、この平鹿町醍醐の樋の口があります。ここには古い時代、「樋ノ口城」があったといわれ、歴史をもった集落です。昔は樋の口村と呼ばれ、沼のあるその一集落が新処です(荒処とも書かれるようです)。

  「沼入り梵天」は毎年五月一日が祭日、平鹿町の地元をはじめ近隣町村からの見物客でにぎわいます。この「沼入り梵天」について「平鹿町の指定文化財」(平鹿町教育委員会編)という小冊子に次のような記載があります。

  *「平鹿町の指定文化財」
・番号(1)・指定者/秋田県
・種別  民俗文化財  ・指定月日  昭和58年12・16
名称  荒処の沼入り梵天行事
所在地/伝承地  平鹿町醍醐字荒処
・管理責任者  荒処沼入り梵天保存会

  これによると平鹿町の指定文化財は20あります。県指定4、町指定15。そのNo.1が、県指定の「沼入り梵天」となっています。県指定の「無形民俗文化財」というのですから、たいへん貴重な文化財といえましょう。

  次の写真入りの記事は、平鹿町広報紙“ひらか”(2003年6月)よりの転載です。ここでの記事では、「野御扶持町」とのかかわりについては省略されていますが、文中の「…沼のそばにある厳島神社に約三百年以上伝わる…」とあって、古い歴史をもつものであることを紹介しています。

五穀豊穣、家内安全を祈願-沼入りぼんでん
沼入りぼんでん風景 醍醐荒処集落の弁財天沼で五月一日、『沼入りぼんでん』が行われました。
  この祭りば、沼のそばにある厳島神社に約三百年以上前から伝わるとされる伝統行事で、昭和六十三年に県の無形民俗文化財に指定されています。厄年を迎えた人や結婚、初めて子どもが誕生した家などから男衆が参加する習わしで、長さ四メートルほどの杉丸太に福俵を飾ったぼんでんを沼の中心に突き立て五穀豊穣、家内安全などを祈願するものです。
  この日は、晴天に恵まれたものの肌寒い風か吹く中、ねじり鉢巻に下帯姿の五人の男衆がぼんでんを担いで笛や太鼓、ほら貝に合わせて集落内を練り歩き、沼のほとりに設けられた祭壇でお祓いを受けたあと沼の中央へ。ぬかるむ足場で肩まで水につかりながら声を掛け合い、丸太に結んだ縄を引いてぼんでんを突き立てると、見守っていた大勢の見物客から一斉に拍手が送られました。

  この「沼入り梵天」は、沼の工事とふかくかかわりをもち、沼を大きく深くすることで用水を蓄え、新墾き(新田開発)に取り組んだのが「野扶持」方(のふじかた 方=衆)三十人であったのです。あとに「野御扶持」方となるのですが、もともとは佐竹氏に仕えた家臣たちであり、常陸(ひたち=今の茨城県の大部分)から、主君の国替え(慶長7年/1602)のあと秋田に入ったといわれます。十年ほど遅れての下秋であったため奉公が許可されず、まずはそこからの辛苦の日々をおくらねばならなかったのですが、元和元年(1615)に下樋口の新墾き(新田開発)の許可がおり、欣喜雀躍、一致団結を誓い合った、その初心が、「沼入り梵天」を生んだものといえるでしょう。

  沼の岸に小高い丘があり、お宮が建っています。

「…このあらとこ村も、むかしは弁財天村といひて いといと古キ弁財天の霊像ありしが、みな朽にくちて残れり、みたらしの池もいとあせ、御堂もいたくこぼれてありしを野御扶持方再興あり。…」

(『雪の出羽路』=下樋口村里長佐藤氏系譜〈佐藤理右衛門信豊聞キ書キ〉の項より)

  弁財天の沼も、その神像も、「野御扶持方」とのつよいつながりを持ち、それが今に語り継がれるなど、「約三百年以上伝わる」という、決して誇張ではない歴史が生きているのです。

  沼をわたる風、そのさざなみの音に耳すまして、少しばかりの散歩にでかけてみることにします。

樋の口(荒処)周辺図


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