第五章 新田開発と沼/堰一、「沼入り梵天」と“野御扶持方”新墾き (1)「平鹿の文化財」 (平鹿町教育委員会刊)より はじめに もと「野御扶持町」(のごふじまち)は愛宕山に近く、東側がすぐ山、西側が旭川ですぐ土手、こぢんまりとした「山と川のある町」といえるほどで、その奥に市の浄水場のある町です。旭川(横手川)が本郷橋を抜け、山にぶつかり、その浸食で出来た断崖辺がヘグリと呼ばれ、そこに近いので昔はヘグリ町とも言われたところです。 しかし、この町は、「秋田県の近世における新田開発史上、特異な例」(『平鹿町史』)として高い評価を誇れる歴史を背負った町として知られています。ところが、こうした歴史的な意味などそっちのけで、便宜主義(あることをするのに都合のよいこと。便利なこと。)の名を借りた「新住居表示/昭和40年実施」によって、このあたり一帯をひろく「上内町」と改称、歴史的な意味など切り捨てられてしまった町になっています。
*「平鹿町の指定文化財」 これによると平鹿町の指定文化財は20あります。県指定4、町指定15。そのNo.1が、県指定の「沼入り梵天」となっています。県指定の「無形民俗文化財」というのですから、たいへん貴重な文化財といえましょう。
この「沼入り梵天」は、沼の工事とふかくかかわりをもち、沼を大きく深くすることで用水を蓄え、新墾き(新田開発)に取り組んだのが「野扶持」方(のふじかた 方=衆)三十人であったのです。あとに「野御扶持」方となるのですが、もともとは佐竹氏に仕えた家臣たちであり、常陸(ひたち=今の茨城県の大部分)から、主君の国替え(慶長7年/1602)のあと秋田に入ったといわれます。十年ほど遅れての下秋であったため奉公が許可されず、まずはそこからの辛苦の日々をおくらねばならなかったのですが、元和元年(1615)に下樋口の新墾き(新田開発)の許可がおり、欣喜雀躍、一致団結を誓い合った、その初心が、「沼入り梵天」を生んだものといえるでしょう。 「…このあらとこ村も、むかしは弁財天村といひて いといと古キ弁財天の霊像ありしが、みな朽にくちて残れり、みたらしの池もいとあせ、御堂もいたくこぼれてありしを野御扶持方再興あり。…」 (『雪の出羽路』=下樋口村里長佐藤氏系譜〈佐藤理右衛門信豊聞キ書キ〉の項より) 弁財天の沼も、その神像も、「野御扶持方」とのつよいつながりを持ち、それが今に語り継がれるなど、「約三百年以上伝わる」という、決して誇張ではない歴史が生きているのです。
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