山と川のある町 歴史散歩

第五章 新田開発と沼/堰

一、「沼入り梵天」と“野御扶持方”新墾き (3)

(2) 野御扶持方による新田墾きの歩み

  新田開発の困難さは、まずもって用水の確保にあります。樋の口村は川に頼ることは不可能だったでしょうし、そこで沼による用水確保が先決となり、沼の弁財天に願をかけた当然の帰結といえます。沼の深さは新田開発の広さにかかわります。沼の一番深いところへ“大ぬさ”(御幣〈ごへい〉)をたて水の神に祈った「沼入り梵天」の原型がしのばれるというものです。

  こうして野御扶持方の新田開発が始まっていきます。野や荒れ地を切り開くのに鍬一丁にたよるしかなかった時代、野御扶持方の集団の力によるところ大きかっただろうと思われます。ですから、この下樋の口村における新田開発事業について、『平鹿町史』はつぎのように言い切っています。「…弁財天沼に重大なかかわりのある、近世における開発事業として秋田県内でも特異な例…」として大きな驚嘆をこめ、その歴史的な意味を評価します。

  ここでは、まず、その野御扶持町方のじかの声を聞くことから始めることにします。

  次の「口上之覚」(こうじょうのおぼえ)を書いたのは野御扶持方の代表のひとりで、願いを役所宛てに差し出した文書の控えかと思われます。書かれた年代はずっとくだって、「文政十亥年(1827年)三月」とあります(「横手郷土史資料」第20号/「野御扶持方開拓文書」より)。

   口上之覚
私共先祖之者共 於常陸御足軽御奉公相勤罷有 慶長年中御国替之節 十年程過侯て御跡奉慕 御当国へ罷下 元形御奉公相勤申度段 御願申上候得共相済不申 元和年中樋口村吉田村にて 御意御指紙被下置 自分物入を以 新田開発仕罷在候……

  「覚」の前段部分の引用です。前段部分の要点は二つ。

  ①私共の先祖は常陸(ひたち 今の茨城県の大部分)の国で御足軽として勤めていましたが、慶長年中、国替のとき、十年程あとに秋田へ来たこと。その遅れのため御奉公がかなわなかったこと。

  ②それで、元和年中(1615~23)、御指紙(おさしがみ〈開発許可証〉)がおり、自分らの費用と力で新田開発にとりかかったこと。

  つまり、野御扶持方の歴史がここから始まっていくことを述べています。まず、佐竹氏が秋田へ国替えになったのが慶長七年(1602)、それから十年遅れて秋田に来たとされますから、それは慶長十七年(1612)にあたるでしょう。御指紙(開発許可証)のでるのが元和元年(1615)、野御扶持方はこうして動き出して行くのですが、このことの発端について、『雪の出羽路』の下樋ノ口村の項、「里長〈さとおさ〉佐藤氏系譜」では次のように記述しています。

○六代昭信(弥惣/隠居因幡)

……(慶長)同七壬虎御遷封の後、今の野御扶持方御本国より下向、樋口住居して上遠野隠岐守秀宗(かどのおきのかみひでむね)に乞て、本の如く奉仕せむ事を告訴すと云へど許容なし。

秀宗の吹挙に因て、元和元年乙卯九月十五日、其首人(かしら)助兵衛、与惣兵衛、及び弥惣等へ 御執政向右近太夫宣政(むかいうこんだゆうのぶまさ)の御指紙を以て、樋口、吉田 開墾の地を賜フ。其言曰、開キ次第告訴すべく、加恩に宛べき、上意の旨を述、後年連々開墾して百六拾石余に及べり……

  樋ノ口村肝煎佐藤弥惣と野御扶持方とのかかわりのつよい部分を引用したのですが、ここでの要点は二つ。

  ①上遠野隠岐守秀宗の力を借りて、もとのように御奉公を願ったが許されなかったこと。

  ②それでも秀宗の推挙により、元和元年(1615)首人(かしら)助兵衛・与惣兵衛・および弥惣へ藩家老向宣政より「御指紙」(おさしがみ/開発許可証)がおり、樋ノ口、吉田の開墾の地を拝領したこと。

  ここではどうしても、ここに出てくる人はどのような人であったのか、について触れてみることにします。

  まず、上遠野秀宗からみていきます。

  『横手郷土史』の〈大阪冬の陣出征〉の項に、横手から参陣した人の一覧に、「上遠野隠岐守」がみえるので、横手に住んでいたことがわかります。古い時代の「城下絵図」の羽黒町の屋敷割に「上遠野」がみられます。現在の南小学校のプールのあるあたりといえます。城代伊達参河守の次の次に名まえがあるので上級の士族であったものでしょう。この上遠野氏は常陸時代、野御扶持方の上司であった人かも知れません。あとの代になっても、「上遠野のご隠居様」と丁重なことばが使われるなど、この人とのかわりの深さは特別なものがあるようです。

  次に、向氏です。「御指紙」をだした藩家老向右近太夫宣政という人は、慶長七年十月には横手城搦手城代を勤め、翌年、秋田に移り家老職についた、と『横手郷土史』にあります。横手とは関係の深い人ですから、もう少し探ってみましょう。

*向氏(むかいし) 岩代(いわしろ)国白川郡羽黒館(現福島県東白川郡塙町)に、一五八九年(天正一七)以来、居を構えた向右近宣政が、一六0二年(慶長七)佐竹氏の秋田移封に伴い横手搦手城代に任命された。翌年、藩の家老(禄2400石)となり、その子清兵衛政次が横手搦手城代の跡を継いだ。…以来、明治維新までに家老職を勤めた者六人を出した秋田藩の名家。…幕末に、小鷹狩源太(向氏の別名)の家中には組下110人。支配は、足軽二五人、種子島打ち一二人。野御扶持方足軽二九人、御使番三人、御升取一人である(「羽陰分限帳」)。ほかに横手在住の迎氏がいるが、向氏の別家である。家紋は上り藤。横手羽黒の傑作山桃雲寺(浄土宗)は向宣政開基の寺院である。(伊沢慶治)

(「秋田大百科事典」)

  「羽黒御足軽」とか「横手羽黒野御扶持方」といれるように、「羽黒」という呼び方が古い文書などによく使われるのも、この向氏とのかかわりあってのことだったことがわかります。それに桃雲寺が向氏開基の寺であることも「羽黒」とふかくかかわっていることがわかります。

  上遠野隠岐守秀宗の推挙を得て、藩家老向右近太夫宣政から、野御扶持方の人達が待ちに待っていた宿願の「御指紙」(おさしがみ)がおりることになります。〈開墾の地を扶持にする〉ことが出来ることで、「野扶持」(のふち)とされ、やがて「野御扶持」(のごふじ)となったわけです。古い検地帳では「野扶持」とあります。

  こうして宿願の新田開発が始まっていくわけです。

  その「御指紙」について見ておきます。

樋口村よし田村之内にて新開可仕候由相心得候 本田さはりに成候はぬ處を可相開候 開次第に可致披露 加増に可被下置由 御意にて候 仍て如件

  元和元年九月十五日   向右近

     羽黒惣御足軽      
           頭     助兵衛
           頭    与惣兵衛
           肝煎     弥惣

(「横手郷土史資料第46号」より)

  読みやすいようにしてみます

樋口村、吉田村の内にて新開(しんびらき)つかまつるべく候よし、相心得候。本田(もともとある田)のさわりになり候わぬ處(ところ)を相開くべく候。開き次第に披露いたすべく候。加増に下しおかれるべく御意(ぎょい)に候。仍て如件(よってくだんのごとし)

  あちこちにみられる指紙も、これと同じような形式で大きくは違わないのですが、「開き次第に報告するように。加増との御意」という後段が、いかにも指紙のもつ原型(古いかたち)を示しているようにみることができます。このなかの「御意(ぎょい)に候」(藩主のお指図、仰せ)というこの一語、このひとことに野御扶持衆は感泣したのではないかと思われてなりません。なぜならば、奉公もかなわず、見放されていた彼らに、藩主じきじきの「御意」が下されたのですから、感きわまり、欣喜雀躍、新墾きへの一致団結を誓いあったに違いありません。

  指紙の受け手が三人というのも珍しいのですが、樋の口村肝煎・弥惣(佐藤昭信)はわかるとして、「羽黒惣御足軽・頭」の〈助兵衛〉〈与惣兵衛〉の二人は、あとの野御扶持衆となる人たちの頭だったのでしょうか。野御扶持衆の名前の出る古い検地帳にもこの二人の名前は見えないので、字義どおりの「羽黒」全体の御足軽・頭だったと考えられます。

  これまで、野御扶持方の新田墾きの出発にかかわるうごきを見てきたのですが、その後のうごきを、もう一度みてみるとひとくちでいってたいへんな辛苦の連続であったことがわかります。『雪の出羽路』の〔里長佐藤氏系譜〕の十六代の〔佐藤理右衛門信豊聞キ書キ〕での野御扶持方の記述は、よくまとまったものですから、次にあげてみます。上段(左)が原文、下段(右)は野御扶持方分についての年表風なまとめです。

     
*[十六代佐藤信豊聞キ書キ下段=野御扶持方分のまとめ(年表風に)
……昔、常陸ノ国羽黒町といふ処に九十人の足軽組ありしが、慶長七年(1602)御遷封の時御供して十三人此秋田に来る。・慶長七年(1602)、佐竹氏秋田へ国替え。
しかして後十年といふに、また七十九人の足軽、おほむ跡を慕い奉りて此国に来れど、それと御奉公のよるべもあらで、すべなう横手山内に入りて樵夫(きこり)、炭焼の業をして日を送りぬ。かくて、おなじ年十九年には大阪御陣ぶれありて世の中ゆすりみちて、此とき君の御供して八人は大阪の御陣へ出たちぬ。 ・慶長十七年(1612)十年遅れて七十九人の御足軽が秋田に来る。しかし、ご奉公かなわず、横手をたよって来た人たちは横手山内に入って樵夫、炭焼きの仕事などをして日をおくるしかなかった。
かくて後、此御陣の御供せし八人と常陸より御供せし十三人と合せて二十一人は功者とて、寛永年中、家士(とのひと)にめしたてられたり。 ・大阪冬の陣/御陣ぶれ(慶長十九年)
さきの八人と、常陸からお供した十三人合わせて二十一人功あって士分に取り立て(寛永年中)。
残りつる人とらは弥惣を憑(たのみ)て新田の開墾(ひらき)にかかりて、上下樋ノ口、三吉田の水田(いなだ)開きつれど、貸乏(たからとも)しければ是をそれぞれに售(うり)なして、残れる地の田百六十石ありし新田に正保四(1647)のころ検地御竿入りわたりて、野御扶持方とて知行たまわりぬ。かかる野御扶持の者三拾人、此下樋ノ口村のここかしこに家居して住たりしが、横手根岸町の御米庫(蔵)の番仰付けられて、そが中より二人づゝ二十日交代して勤めけれど、道のほども隔(へだた)りわづらはしければ延宝三年(1675)に願を達てやをら諾(うけひき)たまへば、おなじとし五年より八年に及びてみな横手に引キうつり、経繰(へぐり)といふ地(ところ)に栖居(住め)り。さりければ今そこを野御扶持町(のごふじまち)といふといへり。其野御扶持人卅人が住し跡は新処の人ところどころに住み、また旗幅(はたふり)山の麓辺、今は田となりてあンなり。 ・元和元年(1615)、“野御扶持方”に御指紙(開発許可証)出る。佐藤弥惣にたのみ新田開墾にかかる。

・正保四年(1647)新田開発により「野御扶持方」として知行認められ、郷士的存在として下樋ノ口村に移住。

・延宝三年(1675)野御扶持の者三十人、横手根岸町の御米蔵番となり、ヘグリ町に移住。

・さらに検地/新田開発進む。

  ○延宝五年(1677)
  ○宝永五年(1708)
  ○享保七年(1722)
  ○〃十二年(1727)
  ○明和五年(1768)
  ○寛政八年(1796)
  *(次の(3)の項よりの挿入)

しか其卅人の野御扶持等に文化三年に鉄砲わたりて、野御扶持御足軽と呼びぬ。卅人の外廿一人家士となれるは御免町に家居し、残る卅九人は世に住みわび、土民(たつくり はたつくり)あるいは町人(いちびと)となりて、なにくれかにくれのわざせり。(略) ・文化三年(1806)、野御扶持等に鉄砲わたり、野御扶持御足軽とも呼ばれる。

・文政十一年(1828) 「検地願出」のため久保田へ (今野茂助)

  新墾きにいどむ野御扶持方のうごきをまとめてみます。

  常陸から十年遅れて横手入りし、「指紙」の出るのが元和元年(1615)、感泣の涙といっしょに新墾きを誓いあったのが、下秋から三年目。この三年間、山内に入って樵夫、炭焼きをして生計を立てたというのですから、まずはその辛苦からの出発だったということができます。

  正保四年(1647)、新田墾きの成果がようやく「野御扶持方」として認められ、郷士的存在として下樋の口村に落ち着くまで、「指紙」がおりてからでさえ三十二年目。“自分物入り”で、「御意」への報恩の鍬をふるい、「上下樋ノ口、三吉田の水田開きつれど、貸乏(たからとも)しければ、これをそれぞれ売りなして」という辛苦がつづくのをみます。それでも野御扶持方の集団的結束は固く強く、正保四年の検地では新墾き百六十石が公的に認知をうけます。百六十石というそれこそ粒々辛苦の結実そのものに野御扶持方の集団的結束のくずれることのない強さを知らされます。

  延宝三年(1675)、根岸町御米蔵番を二人づつ三十日交代を命じられ、ヘグリ町に移住。それがもとの野御扶持町になったわけです。

  下秋から六十三年目、「指紙」がおりてからでさえ六十年ですから、たいへんな辛苦のあしあとを示すものといえましょう。


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