山と川のある町 歴史散歩

第五章 新田開発と沼/堰

一、「沼入り梵天」と“野御扶持方”新墾き (4)

(3) 検地帳にみる野御扶持方開発高

  野御扶持方の困苦に満ちた新田開発の結果・成果を、その残された下樋口村検地帳から拾ってみると次のようです。

  まず、「検地」というのは、その村の田・畑・屋敷などの土地を調べること、その土地の生産者である百姓(名請人〈なうけんにん〉)を調べることで、その記録されたものを「検地帳」といいます。

  そこで、下樋口村の野御扶持分(この検地帳では〝野扶持”)について、『平鹿町史』の「野御扶持開」の項にくわしいので、ここではそこからの引用です。

  正保四年(1647)の野御扶持方の新田開発高のくわしい記録は残されていないようですが、さいわい延宝五年(1677)の検地帳が残されており、その考察資料は次のとおりです。開発高のひとりひとり分をみることができる貴重なものですが、ここでは、まずその全体をみることにします。

延宝五年の検地帳では、下樋口村の野御扶持分は、

上田 (じょうでん)六升
中田 (ちゅうでん)一八石八斗九升五合
下田 (げでん)三一石九升九合
下々田(げげでん)一八石四斗五升九合

上畠 (じょうばたけ)八斗六升七合
中畠 (ちゅうばたけ)三石一斗二升七合
下畠 (げばたけ)三石一斗一升四合
下々畠(げげばたけ)六石八斗九升五合

屋敷一石五斗八升一合

計 六六四筆八二石五斗一升六合

  村高の約八分の一に及び、下樋口村の全名請人八八人中七七人までが、面積の大小はあるが、野御扶持分として耕作して居り、野御扶持方との関係の深さが知れる。

  検地帳には、ただ田畑の面積を測るだけでなく、その田畑の土地条件のよしあし=「田位〈でんい〉」も決め、〈上、中、下、下々〉の四等級に区分けされており、下樋口村の野御扶持分の開発の実態がよく示されているのがわかります。やはり、田畑ともに「上」は少なく、どうしても土地条件としてはよくない、「下」の多いのがわかります。畠は「下々」の多いのがわかり、土地条件の悪いところは、畑にするしかなかったものでしょう。そこにも開発のきびしさを見ることができるというものです。

  「計六六四筆」は、一枚一枚の開発田地(田・畑)の野御扶持分の総数です。面積の大小は別として、六六四の田・畑が開発されたことを示すもので、それが、「野御扶持分として耕作しており…」と考察しておりますが、くわしいことはわかりかねます。

  次表「給人と百姓関係」(「同書」)がありますが、さきの下樋口村の検地帳の分析からのものとみられます。

  「給人」とは、指紙をもち、ここでのばあい、資金を出して耕作者に耕作を頼む、その土地の開発主とされます。耕作者(百姓)からみれば、給人はふつう、“親方”というつながりをもつわけです。「百姓」は耕作者を指し、検地帳では「名請人」とされてきたものです。

  この表でのまとめ・分析は、一目瞭然というものです。

  「給人」というかたちでの「野扶持」分の耕作者が七七人。「野扶持」は指紙をもち耕作権を与えられ、十分に士分格をあらわすもので、「郷士的存在」をあらわしているわけです。それに、「野扶持」方は、同時に耕作者でもあるわけで、こうした関係をこの表はみごとにあらわしているわけです。すぐれたまとめ・分析といえます。

  ふつう、「野御扶持方三十人」とされますが、「野扶持」のもつ給人格を下樋口村の人たちに貸したかたちからの「七七人」であったものとも考えられます。これについて、くわしいことはわかりませんが。

  延宝五年は、野御扶持方に指紙がおりてから六二年もたち、下秋のときの人たちはすでに亡くなり、二代目、三代目という年代になるでしょうから、野御扶持方の力と共に、下樋口村の人たちとの関係のふかさが知られるというわけです。

  ほかの給人との関係で、「野扶持」方をみてみると次のことがわかります。

○上遠野藤馬(名請人三三人のうち、「野扶持」方十七人。)
三郎右衛門、弥三郎、甚介、介左衛門、惣右衛門、六左衛門、拾郎左衛門、右馬丞、長兵衛、久左衛門、利右衛門、弥作、源拾郎、喜蔵、孫右衛門、不動院、明泉寺

○三栗谷数馬(名請人十七人のうち、「野扶持」方十五人。)
与兵衛、理(助)介、弥兵衛、久三郎、尾張、万吉、法兵衛、長右衛門、源兵衛、十蔵、右馬丞、与右衛門、二左衛門、寺、(十蔵)

○緑川彦内(名請人十人のうち、「野扶持」方十人。)
与右衛門、長兵衛、九右衛門、長左衛門、形部、九左衛門、与作、与吉、弥作、次右衛門

○片野彦右衛門(名請人十八人のうち、「野扶持」方八人。)
長左衛門、形部、利右衛門、源拾郎、喜蔵、浅都、孫右衛門、三吉

  耕作者の少ない給人については略。「野扶持」方は給人格を持ちながら、そのうえになお、他の給人の耕作者となって開発にいどんで来たことを示すものです。「野扶持」方の特異な存在を示す証左といえます。

  鍬一丁にかけた集団的結束の力、その辛苦のあしどりといえるものを見ることができるというものです。

  「野扶持」方からの耕作者が一番多い給人が、上遠野藤馬ですが、下秋の折り世話になった上遠野隠岐守秀宗の家系ではないかと考えられます。恩顧にむくいる野御扶持方の心意気をみることができるというものですが、くわしいことはわかりません。耕作者十人中、十人ともみな「野扶持」方とある緑川彦内は、もとは、「野御扶持方」のひとりだったようです。あとで功あって士分取り立てとなり、御免町に住んだようですが、関係のふかさが知られます。

  この「野扶持」分にみられる耕作者のなかに、あとに野御扶持町に居を構えた人たち(あるいはその先祖)がいたと考えていいでしょう。あとで苗字を貰うことになるのですが、この時代はまだだったわけで、明確なつながりを見出せないのはなんとも惜しいばかりです。

  延宝の検地帳につづくつぎの検地帳にも新田開発のたゆまない足跡を見ることができます。

その後も開墾はすすめられており、醍醐支所の検地帳からひろってみると、享保十二年(1727)の下樋口村新開検地帳野御扶持分綴には、

・宝永五年(1708)
   田合八畝七歩
    免四ツ五歩
    分米合五斗七升六合
・享保七年(1722)
   田畑八合畝五歩
    免四ツ五歩
    同分米二斗三升壱合
・享保十二年(1727)
   右畝合二反二畝二六歩
    免五ツ八歩
    同分米合八斗七升壱合
    外二八斗一升二合本畠引

とあり、明和五年(1768)の下樋口村新開検地帳・野御扶持方分として、

 免四ツ五歩
 一、田高合 二畝拾歩
     此分米壱斗六升三合
     免五ツ八歩
 一、屋敷高合 一反五畝八歩
     此分米一石五斗二升七合

とあり、寛政八年(1796)の「今泉三右衛門支配所平鹿郡下樋口村本田本田並開打抜起返御検地帳」では、

 畝合二町九畝四歩
 分米合拾五石九斗五升三合
  免五ツ八歩成
  内五石二斗七升五合 起返地形入組打抜分
  同拾石六斗七升八合 起返り
  但石高向帯刀支配横手野御扶持手前物入を以起返り御忠進申上候ニ付…

とあり、下樋口村において野御扶持方による逐次の注進開がすすめられたことを知り得る。(「同書」)

  まず、年代で追っかけてみると、
   宝永五年(1708)、享保七年(1722)、享保十二年(1727)
   さらに、明和五年(1768)、寛政八年(1796)
と、検地のあるごとに、野御扶持方分の開発の成果が、その休むことのない取り組みの持続が記録されていくのを見ることができる、とされています。

  そうした集団の力による新田開発の、そのあともつづけられていったことを残す、「開発許可の書付」(「横手郷土史資料第20号」 [野御扶持方開拓文書」)として、文政十二年(1829)の記録が示されています(「同書」)。その要点をみると次のようです。

御支配横手羽黒御扶持方願申上候は……平鹿郡上吉田村につっかけ野と申所開場所有之候故、右村方へ懸合候処、村方より別段差障無之趣申聞に有之候故、私共自分物入を以開発仕度存候

……字所津っかけ野開発には平鹿関余水水取り、字所福島野開発には、朴田古堤手入開発仰付候ても差障無之候哉、御吟味被成置候処……野御扶持方におゐて取立の儀に御座候へは別段差障無之申出候。

右之通御吟味の上字所朴田本田荒堤手入其外下樋口村余水平鹿関水元に被下置候間御紙下開発可致候

  右之御評議の上相済被仰渡候間此旨野御扶持方へ可被申渡候     (「同書」)

  上吉田村つっかけ野、また同村福島野の開発願いを差し出し、それが許可されるまでのくわしい手順・経緯をみることができます。朴田古堤の手入れにも触れていますが、新田開発には、この沼の手入れ工事にもかかわったものとみられます。いま、朴田沼は満々と水をたたえて、ありし日のおもかげを偲ばせます。

  『平鹿町史』は、こうした野御扶持方の新田開発について次のように結んでいます。

  このように野御扶持衆は、領主佐竹氏への忠誠心を礎として苛酷な新田開発に次々と着手していったのである。

  野御扶持衆の開墾の歴史は下樋口村の歴史上にもとどまらず、秋田県の近世における新田開発史上、特異な例として後世に受け継がれていくことだろう。

  これらは、幕藩体制化における領内経営の財政の支柱となっていた「農」というものが、いかに重大であったかを知り得るのではないか。



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