山と川のある町 歴史散歩

第五章 新田開発と沼/堰

一、「沼入り梵天」と“野御扶持方”新墾き (6)

おわりに

その①

  野御扶持方の“新墾き”について多くの紙数を割いてきたのですが、「おわりに」のこの項では、さきの「樋口村に於いて自力開拓事業に従事し、没頭すといえども、武士の血統を受けし以上…」(「野御扶持町の起源と沿革について」〈今野茂・記/昭和3年〉糸井藤之助・文)とある、野御扶持方のもうひとつの側面、つまり“武士”としての精進にかかわることについて、「同書」から拾ってしめくくりのひとつにしたいと思います。

  (八)

  我が鼻祖が秋田へ移住以来、数百年の長きにわたり、樋口村に於いて自力開拓事業に従事し、没頭すといえども、武士の血統を受けし関係上、その精神は漲り流れて失わず、多々益々横溢さを極めたもので、何時、その変異のなかったのを此の上なき喜びとするものである。

  しかし、開墾時代にあっては困窮のドン底生活まで陥入したことも無きにしもあらずだが、各人がよく武節を重んじ、……治に居て乱を忘れぬは武士の常道、三十人は一つのサークルとなり、農閑日は言うまでもなく、毎月数回、稽古日を特設して、さかんに演武会を開くなどして武道の鼓吹に努めたものである。

  ……町内に会所、すなわち道場を設け、御奉公の傍ら専心斯道のために励み合い、心身の鍛練に武技の上達錬磨に努力し、時折町内との連合会を催し、あるいは他流試合に出掛けなどして、力量の習練発揮に努め……

  (八)の項はまだまだ続くのですが、「開墾時代にあっては困窮のドノ底生活にまで陥ち入ったことも無きにしもあらずだが、各人がよく武節を重んじ」・・・と、かなり広い田畑を売り払ってまでして、苦境をなんとか脱したことも古記録にあった通りですが、そこは野御扶持方の面目と意地と、そして根底には、「武節を重んじ」たといえるものがあったからと言えましょう。

  「治に居て乱を忘れぬは武士の常道」とは、よく言われもしてきたことだったのでしょうが、「町内に会所、すなわち道場を設け」など、野御扶持方としての集団的結束の堅持、そして互いの錬磨をめざした精進あってのことだったといえます。

  こうした精進ぶりのうちの一例ともいえるものに、文政九年正月、今野茂助…槍術出精につき、公儀より賞として銀十匁、旦那より扇子二本拝領…の記載が「同書」にみられます。また、安政二年三月、村上・神尾・高橋・佐藤…弓出精につき、弦二筋づつ拝領…など、野御扶持方の日頃の習練ぶりをみることができます。このほか、「鉄砲」の〈二十五発残り無く星打ちの功〉にみられる、全発必中の技など、野御扶持方の技能のすぐれて高かったことにもみられるほどです。

  この時代、「苗字御免」の破格の特典を得たとしても、身分としては下級士分の格付けが厳しかった野御扶持方であったのですが、集団の力による新墾きの開田成果の歴史は、それこそ、藩からの「仰被渡書」(おおせわたされしょ)の文面にみられる「奇特」の一語に尽きるといっても過言ではないでしょう。
  *註[奇特]=特にすぐれて珍しいこと。また、心がけや行いが優れてほめるべきものであること。殊勝。(「広辞苑」)

  その「奇特」の根底に、野御扶持方の「武節」を重んじた、もうひとつのだいじな側面を見逃すことは出来ないでしょう。武士として生きることの渇望をそこにみることが出来るからです。鍬一丁にかけた辛酸辛苦の数百年に及ぶ歴史、そして武節に見据えた武士として生きることへの渇望……野御扶持方の人たちのそこに、もうひとつの「奇特」をみることができると言えるのではないでしょうか。

その②

  野御扶持方のなかでも、弓の技術に秀でたひとりに神尾伊右衛門の名が知られていますが、現在(もと野御扶持町。現、上内町11-3)の神尾光一氏のご先祖にあたると言われます。光一氏の小さかった頃、弦の切れてしまった古い弓を見たことがあったそうです。

*註=神尾光一氏。油絵画家(もと教師。朝倉小学校校長を経て、現在、市内絵画教室、サークル等の指導者)。

  神尾光一氏がずいぶんと若かった頃、上樋の口のある集落の古いりっぱな家から呼ばれて、「親方」「親方」と丁重なもてなしをうけて、たいへん感激してしまった……というお話しを聞いたことがあったものです。この「おわりに」の項の②として、このお話しを再度お聞きしてまとめのふたつめとします。

○神尾光一氏からの聞き書き

  わたしが昭和27~28年(1952~53)頃、醍醐小学校に転任となり、そうした数日後、授業中のわたしの教室の入り口の戸をたたく音がして、そこに見知らぬご年配の女性が立っておられました。

  「神尾(かんお)先生ですか。」
  「はい。」

  「神尾(かんお)」と昔風な発音で呼よばれて、一瞬、なつかしさにどきりとさせられたものでした。

  まず、沖田(上樋の口の一集落)の□□という家のものですが、と自己紹介をされてから(その□□という姓は、いまでは思い出せませんが)、実は、先代がなくなって数年がたち、あしたは、その法事です。むかしから、御世話になったわたしどもです。神尾先生に是非ともご列席くださるよう……と丁重なご挨拶。

  醍醐に親類などいるわけでもないし、とすれば、その昔、樋の口の新田開発に、神尾家の先祖が関係したことに違いないと、まずはていねいに謝意を表すしかなかったわけです。

  家に帰って両親に聞いて見ると、確かにその昔、その沖田・萩ノ目あたりで神尾家の先祖が新田開発に精を出し、その折りに村の人たちの力を借り、また、「親方」の関係をもったことがあったという。あすの法事は、そのことと関係があるのだから不調法は出来ず、それなりのものを包んだりして準備したものでした。

  当日、放課後、その家をたずねました。昔風でありながら、どこか威厳のあるりっぱな家だった記憶があります。広い部屋には、すでにかなりの人数の人が集まっておられ、わたしが案内されたのはなんと一番の上座だったのです。恐縮していると酒宴が始まり、一番上座のわたしは、誰からも、「親方」「親方」と呼ばれることに気づき、まだ年端もいかない若造のわたしは、なんか別世界にいる感じにひたらされるばかり。

  次第にわかったことは、その昔、この沖田では「親方」(神尾家の先祖)にたいへん御世話をうけたこと、「親方」と「耕作者」といった関係のこと、ずいぶん親身な力添えをいただいたこと……などなど、家の年寄りたちが語り伝えてきたことをこもごも述べて、神尾先生、よくお出でになってくださったという謝意に、時代をこえた、年代をこえた人のあったかさにすっかり感動させられたものでした。

  上樋の口にもう一軒親戚ができた感じをふかくしたものです。わたしが、確か24~25才頃のことだったように思います。

  このことさえもずいぶん昔のことになってしまいましたが……。

*お話しをお聞きした日、2008年8月10日。

  野御扶持方は指し紙(新田開発許可証)の受け手であり、その給人格を持つことで、樋の口村・吉田村の新墾きの主体となって、辛酸辛苦の三百年近い「奇特」のいとなみに汗を流し続けたといえます。野御扶持方三十人の集団的結束力にもの言わせた面も大きかったといえましょう。

  しかし、それだけでなく、地元の人たちの「耕作者」としての援助を大きく受けたことあっての開田成果といえましょう。

  給人格=「親方」、耕作者=「名請人」「符人」といった関係が、一枚の田畑のなかで、無限のあったかい、しかも濃密な信頼関係を消えることのない年輪として刻み込んだに違いありません。野御扶持方は、「野扶持」の「給人格」を持ちながら、しかも耕作者でもあったわけで、営々と汗ながしつづけた「親方」であったことと共に、地元の「耕作者」とのみごとな結合の深さを、築きあげたということができましょう。「神尾光一氏聞き書き」には、「親方」の一語が光ります。

  三百年近い新墾きにかけた、人間的な濃密な関係をみごとに示す一語です。鍬一本に汗ながしあったときの「親方」、風雲の明治をかいくぐらねばならなかったときの「親方」、その時代・時代のいくつかの局面で、「親方」は村の人たちのなかで語り継がれていったものでしょう。その「親方」の孫とでもいえる若い「神尾先生」をみんなが囲んで、「親方」「親方」と呼ぶさまなどまぶしいばかりのものを感じます。

  荒処の弁財天沼は、今、秋です。おだやかな陽差しのなかに、春の「沼入り梵天」の梵天が少しくたびれた格好で、沼の真ん中に立っています。そんなに大きな沼ではないのですが、沼の西側の堤防はなんとも重厚で、さすがにみごとです。その沼のほとりに制札風にした案内板が立っています。

秋田県指定無形民俗文化財
荒処の沼入り梵天行事
        昭和六三年八月一九日指定

  毎年五月一日、長さ四mの杉木の先に御幣で飾った梵天を弁財天沼に奉納する祭り。白いパンツ姿になった男達が沼の中央に梵天を運び、支柱に付けられている控綱を引っ張って差し込む。初嫁をもらった人や厄年の人が沼入りの資格を有し、当人が女性や老人の場合は代理をもって男性が奉納する。

  菅江真澄の『雪の出羽路』によれば、横手羽黒町野御扶持(のごふじ)方の斎神として弁財天(厳島神社)が荒処に祀られており、この行事が文政年間(1818~29)には既に行われていたことを図絵で記録している。

  古くは新田開発祈願成就を目的とし、五穀豊饒のシンボルである米俵を神の依代である御幣を最もシンプルにしつらえており、梵天行事の原形に近いものとみることができる。戦前は、旧暦三月一七日に神輿渡御えびす俵奉納、翌一八日に沼入りが行われていた。

平成一九年三月
横手市教育委員会

  この案内板にも「野御扶持方」の名が明確に述べられ、斎神弁財天が厳島神社に祀られてあり、沼入り梵天が文政年代にすでに行われていたことを付記しています。

  沼に近く、北側の小高い山にその厳島神社があります。りっぱな石段を登りつめると、もう神社です。ゆったりとした広さを感じる境内のその一番前に、「あ・うん」の二基の狛犬がお出迎え。そのすぐうしろに二基の石灯寵がでんとあって、刻まれた年代がまた古く、「奉納 文政十二年丑三月十七日」とあります。案内板にあった、沼入り梵天行事の旧暦の三月十七日と同じです。梵天行事と、弁財天神社の祭日とのふかいかかわりがしっかり刻まれています。

  この境内には杉の古木も多く、そのどれもが一抱えもありそうです。

  かつての「野御扶持方」の人達は、新墾きの決意と、その達成への加護をこの神域にふかく祈ったものでしょう。沼のさざなみの音にも、また神杉を吹き抜ける風の音にも、「野御扶持方」の人達のふかい祈りをしみじみと感じてしまうばかりです。


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