第五章 新田開発と沼/堰
一、「沼入り梵天」と“野御扶持方”新墾き (5)
(4) 「永苗字御免」のこと、ほか
当時のヘグリ町こそは、今日の野御扶持町で今より二百五十三年前の移住家屋三十戸なりしが、今は他に転住して残るはわずかに五戸(元の士族) うたた寂寥の感に堪えない。
この書き出しの一文は、もと野御扶持町在住の*今野茂氏が、郷土の新聞、「羽後新報」(昭和三年六月~七月連載)の、「我が野御扶持町の起源と沿革」をもとに、「横手郷土史資料第46号」に糸井藤之助氏がわかりやすく書き直しされたものです。
*=(今野茂氏は昭和九年三月、横手尋常小学校訓導を退くと同時に、平鹿郡醍醐尋常小学校代用教員となり、樋の口分校主任として教壇に立つ。昭和十一年五月他界。)
延宝三年(1675)…面々屋敷を拝領の上、横手に移住す。(「同書」)…ですから、昭和三年(1928)からさかのぼれば二百五十三年前となります。下樋の口から移住三十戸が今五戸のみで、「うたた寂寥(せきりょう)」(格別にものさびしい)となんともふかい感慨といえます。
ここでは、「同書」の古資料から、「永苗字御免」と、「野御扶持方」について引用し、まとめのひとつにしたいと思います。
「永苗字御免」というのは、「此の以前には苗字を称ふる事の出来ざる境遇に置かれたるが自力開発と奉公の奇特とによって其の功として苗字即ち姓名を称ふることを差許された…」(「同書」)とあるように、これは旧藩時代では人生一代のこの上ない名誉とされたことを示すものです。このことを示すのが次の資料、「仰せ渡され書」です(「同書」)。
横手羽黒野御扶持ヘ
其方共先祖 於常州御足軽御奉公相勤 慶長の度御遷逢之後 御迹を奉慕 遥々御当国え被下以来 自分開発を以て 数百年来御奉公 無滞相勤候段 奇特之事に候 依之今般格別之儀を以て 一同永苗字被成御免候条 難有可奉存候乍併勤之並御引立被成下候筋には無之候間 向後尚更御奉公出精いたし 是迄通万端無之指支 相勤候儀可為専要事
文政九年(1828)戌二月七日 (太字は筆者によるもの)
太字部分を読み易くすると、「慶長の御遷封のあと、御あとを慕い奉り、はるばる秋田へ参ってから、自分物入りで数百年来の御奉公は誠に奇特のこと。この度、格別のはからいをもって、一同に永苗字を御免なされ候」。野御扶持方のたいへんな喜びとさわぎぶりが浮かび上がります。世話役の上役へは酒二升、鱒二尾、日ごろ御力添えの旦那上遠野御隠居様と吉成御隠居様に酒三升、鱒一尾づつをお祝いとして差し上げ、それに町内では連日連夜の祝宴…といった喜びようです。「願申し上候て此の如く成就仕候は、文化十四年より文政九年めに成就仕候年数十年なり」とも「同書」にみえます。
この願い上げは十年もかかって成就したのですが、はるかさかのぼって、「元和元年(1615)、下樋口村に居住して、自分物入りを以て開発に着手」(「同書」)からは、この文政九年までは二百十一年。百年ひと昔でいえばこれは「ふた昔余」です。野御扶持方にとっての「永苗字御免」という名誉、特典は、これは特筆すべきことだったのです。
もう一つあります。【野御扶持方】という名前のことです。
これまでいろいろな呼び方をとってきたのですが、元和の開発後、検地帳にも、「野扶持」と明記までされ、いわゆる給人格を認められたに等しいものであったわけで、「御足軽」の三字は取り除いてほしいとの文政十年三月の願い上げ書に対する回答が次のように下されたのです。
野御扶持方 其方ども 名目野御扶持方 或は野御扶持方御足軽等 区々申唱候得共 以来は 野御扶持方と可申唱事
亥閏六月(文政十年=1827)
「これまでは、いろいろに呼んできたのだが、これからは“野御扶持方”とする」という役所の決定が出されたわけです。前年の「永苗字御免」につづいての宿願のひとつが大きく解決、それ以来は、「野御扶持方」をめぐっての書き直しのごたごたもなくなったとされます。
ですから、これ以後の「口上書」などには、例えば文政十一年子二月五日(本文は略しますが)の例では、
野御扶持方 |
| 小頭 | 緑川 孫左衛門 |
| 同 | 斎藤 惣兵衛 |
| 筆頭 | 今野 茂助 |
| 同 | 坂本 平右衛門 |
| 同 | 樋川 七郎左衛門 |
| 同 | 佐藤 忠蔵 |
このように、ちゃんとした格付けと、苗字付きになっているのがわかります。「小頭」(こがしら)は、組の代表・責任者でしょうし、「筆頭」(ひっとう)は、組の一番手、準代表といったところでしょうか。
「永苗字御免」「野御扶持方」などにみられる格付けは、士分格といえるもので、さきの郷士的な存在などからは、かたちも、また名目上までも士分格そのものであるといえましょう。
さいごに、もうひとつ見ておきたいことは、「新田開発」のその後の歩みです。同書では、「鉄砲事件」、「天保の大飢饉」などについてもくわしく取り上げてはいますが、ここでは略します。ここでは、同書にある、「野御扶持町の年表」のなかの、主に「開発」を中心にみていくと次のようになります。
文化四(1807) | ○五月、松前御警衛のため出陣命令に付き町内より十一人出発(八月解除帰宅)。 ○卯五月、御弓、御鉄砲、御槍 右三業仰せつけられる。 |
文政九(1826) | 由緒思し召され一統へ永苗字御免仰せつけられる。 |
同 十(1827) | 野御扶持方と申し唱うべく仰せ渡さる。 |
同十二(1829) | ・上吉田村津々掛野、福島野、朴田御忠進御許可となる。 ・下樋口村弁天沼荒沼開き。 |
天保二(1831) | 下り野、上吉田村三ツ屋下、四ツ屋下り開発。 |
同 三(1832) | 上吉田村朴田堤上、下樋口村弁天沼上開墾、及び熊野台堤普請。 |
同 四(1833) | 大飢饉の惨状実に目も当てられぬ。 |
同 六(1835) | 上吉田村田村堤上開発。 |
同 八(1837) | 右箇所残り場所開き。 |
同 十(1839) | 上吉田村福島谷地開発。 |
安政二(1855) | 村上市右衛門、神尾伊右衛門、高橋三左衛門、佐藤半治 弓精出しに付、弦弐筋宛下さる。 |
同 (同) | 野御扶持方一統二十九人大筒方仰せ渡さる。 |
同 三(1856) | 蝦夷地御警衛一ヶ年詰め仰せ渡され出向勤務(野御扶持方八人)。 |
同 四(1857) | 蝦夷地白主表半ヶ年詰め仰せ付けられ八人出張。 |
慶応四(1868) | ・戊辰の役出征方御下命。 ・八月十一日、敵の火燹に掛りて町内二軒を残して全部焼失。 |
明治元(1868) | 黒沢村御境口に番兵仰せ付かる。 |
同 四(1871) | 町内一統士族に召し立てられる。 |
(「野御扶持町の起源と沿革」より) |
「年表」そのものは、野御扶持方の歩みをくわしく記述していますが、ここでは主に「開発」についての歩みをできるだけていねいに見てきたものです。ただ、どうしても国の内外でのうごきの変化が大きくなり、「異国船」にかかわっての、蝦夷地警備、また鉄砲・大筒調練などといったこの時代のもつ時代的不安が大きくのしかかって来ていることがわかります。
文政十二年の上吉田村つっかけ野、福島野、朴田野の開発に当たっては、他の給人との指し紙争いまでおきてしまうなど、予期しなかった事態に巻き込まれる難儀さをもかいくぐったいきさつは、同書にくわしい記述があります。天保大飢饉前後の上吉田村、下樋口村での年を重ねての開発開田はとどまることをしないのです。野御扶持方にとって、そのときどきの藩命による任務遂行は当然としても、開発開田を休むことしなかった、その困苦・辛苦に立ち向かった団結心にはただただおどろかされるばかりです。
そして、時代はまっさかさまに戊辰の役をくぐって明治へと突き進んだわけです。明治四年(1871)三月、士族に召し立てられ、宿願を果たし得たと言うことでしょうが、元和元年(1615)指し紙拝領から二百五十六年、ここに開発開田は歴史的な幕をおろしてしまうことになったといえましょう。
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