山と川のある町 歴史散歩

第五章 新田開発と沼/堰

一、「沼入り梵天」と“野御扶持方”新墾き (2)

(1) 「沼入り梵天」の始まり

  さて、ここからはその「沼入り梵天」の昔を歩いて見ることにします。

弁財天沼(荒処)位置図


  『雪の出羽路』(菅江真澄著/文化年代)の「下樋の口村」(現平鹿町醍醐字下樋の口)の項に次の記述があって、「野御扶持」の名がはじめて出て来ます。さらにその次の「神社」の項には、「弁財天女社」と、「西南に大沼ありて」とがつづきます。これらは別々に記述されていて、そのかかわりについては触れられていないようです。

 * 下樋口村
○此村東は中山を経て大屋村、西は客殿薊谷地村、南は外ノ目村、北は上吉田村也。享保郡邑記ニ ○下樋口村家員廿四軒五十六戸あり ○内野目村同三軒、古館村有故村名ニ象ル。此内野、今は村なし、○新所むら同廿軒 今卅三戸 先には弁財天堂有之故弁財天村ト云フ、下樋口村肝煎弥惣 野御扶持忠進開仕候ニ付 新処村と改ト云。(中略)

 * 神社
○弁財天女社 あらとこ村にませり。祭日三月十七日、別当不動院。此村の西南に大沼ありて、百五拾石の水田の水上也。(中略)

  『雪の出羽路』による「下樋口村」の項での「野御扶持」方(衆)とのかかわりの要点は、「下樋の口村の肝煎弥惣・野御扶持方(衆)との忠進開(新田墾)によって、もとの弁財天村を“新処村”と改めた」と読む事が出来ましょう。“忠進開”(ちゅうしんびらき)は、ここでは“新田墾”(しんでんびらき)の意にとららえて、まず先に進むことにします。「野御扶持」がはじめて出て来るのですが、ここではかかわりの深い「弁財天堂-大沼」について、おなじ『雪の出羽路』の絵図に書かれてある次の一文に進むことにします。(次の資料参照)

雪の出羽路(菅江真澄、平鹿十一から)


「弁財天の池とて永禄、元亀、天正のころまではいといとささやかにふかき水沼にてありしを、新田墾のために元和年中ならむ、ささ木氏、堤百廿間あまり築き起しきぬ。此池の蓮葉の大きさ三、四尺ばかりといえり。近江国桜が池の蓮茎は九尺ある一丈余なるもありといへり。それに応じて葉もまた大きやかなるべし。天竺の祇園精舎の仏池なる蓮葉の亘九尺なるよし、津村氏の書ける潭海に見えたり。

  三月十七日弁天の神事終りて、同十八日は沼祭り也。其沼祭りの日に初婿、またあらたに家作りし人、またこと処より此邑にはじめて住つきたる人は、梵天とて大ぬさをもて、さばかり深き処にさしぬ」

  古い時代の「弁財天の池」が説明されているのといっしょに、「新田墾」(しんでんびらき)とのかかわりが明らかにされています。

  まず、永禄(1558~69)、元亀(1570~72)、天正(1573~91)といった戦国期には「いとささやかにふかき沼」であったものを、元和のころ(1615~23)、新田墾(新田開発)のために「百間あまり」の堤に築き直した…と絵図で説明しています。恐らくしぜんに出来た小さい沼だったものを堤防工事をすることで大きな沼にしたというわけです。人間の手を加える大工事ということは当時としては大変なことだったでしょう。

  文中に「ささ木氏」が出てきます。どんな人だったのでしょう。この絵図でも触れられてはいないのですが、「荒処の沼入り梵天」(平鹿町教育委員会編)では次のように推測します。さすがの推測です。

○水害にならぬように沼の工事は抜群の技術を要した。土手の下を流れる小川をつくり、住宅地に増水しても流されぬような配慮がなされているのに驚く。

  文中、佐々木氏とあるが、堤防工事の責任者と思われ、沼工事の技術屋をさしていると思う。偶然かも知れないが、沼の東方にある五大尊社の正面の紋が佐々木氏の紋章であるのに何かつながりがあるのか、古老に聞いてもわからなかった。

  「佐々木氏」は堤防工事の責任者・技術者であったと推測しています。

  元和のころ、関東から来た人たちの中には、当然、こうした技術を持っていたと考えられます。横手川を改修して、本町辺をひろくし、武士集団を新しく住まわせたと言われますから、そうした技術は関東の人たちの進取性にささえられたものであったに違いありません。それでは沼の堤防工事を押し進めた人たちはだれだったのか。その人たちこそ、新開きにとりかかろうとする「野御扶持」の人たちであったのです。

  ここでは、もう少し「佐々木氏」につながるのでないかと思われる次の記述を見てみます。『雪の出羽路』の同じ下樋の口村の項の「肝煎佐藤氏系譜」のなかの一文です。

「(○佐藤理右衛門信豊聞キ書キ)……また此あらとこむらも、むかしは弁財天村といひていといと古キ弁天の霊像ありしが、みな朽にくちて残れり、みたらしの池もいと褪せ、御堂もいたくこぼれてありしを野御扶持方再興あり。又佐藤与三が功あれば村の名も新処と改めたり。弁財天の神形(みかた)はよしありし人の御作なンとにて、いくばくのとし経てかくたちたりてけむかし。又一寸八分の紫銅(からかね)の盧遮那仏あり、こは弁天の別当不動院の上祖、二世福王院梅栄の親なるもの常陸ノ国より持来りし仏也。(後略)」

  要点をかいつまんでみます。

  ①あらとこ村は、昔、弁財天村といったこと。たいへんに古い弁財天の霊像、池(沼)、御堂までも朽ち荒れていたのを野御扶持方が再興したこと。

  ②肝煎佐藤与三(惣)が功あれば(新田墾の)、村の名を新処(あらところ)としたこと。

  ③弁財天の御形(みかた)はすぐれたものだが、あまりにも古く、それに一寸八分の紫銅(からかね)の盧遮那仏(るしゃなぶつ)があって、これは別当不動院の上祖が常陸の国から持ってきたものという。

  堤防工事の工事責任者が“佐々木氏”であり、弁財天堂の別当不動院だったのでないかと思われます。このことは不明です。このことを確証するだけの史料も見当たらないのは残念ですが、ここで確認しておきたいのは肝煎弥惣(ここでは与三〈惣〉)の力を借り、沼の堤防工事を完成させ、新田墾(しんでんびらき)にとりかかったのが、のちに“野御扶持”方とよばれる人たちであったということです。それに、別当不動院(佐々木氏?)は常陸から来た人であるといっていますから、おなじ常陸からきた“野御扶持”方との強いつながりのあったことは確実だったことでしょう。

  沼入り梵天のその昔は、「沼祭りの日には初婚、またあらたに家つくりし人、またこと処より此邑にはじめて住みつきたる人は、梵天とて大ぬさをもて、さばかり深き処にさしぬ」とあるように、沼入り梵天のその主役は、その誰もが若々しいうえに、これからという発展を無限に背負っている人たちであるといえます。棒を突き刺すことの始まりは、完成した沼の深さを確認するための工事の最終的な作業として、一番深いところへ杭を立てて水深を測ったことが、神事プラス祭礼としての意味を今日につたえているものと考えることが出来ましょう。

  この沼入り梵天は、あとでそういわれるようになる“野御扶持方”の人達の、新墾(しんびらき)への並々ならぬ決意と、その祈りを象徴している祭りといえましょう。


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