山と川のある町 歴史散歩

第五章 新田開発と沼/堰

二、三貫堰

  「西沼」に近く、「立馬郊」(平安の風わたる公園)で知られる〔三貫堰〕の集落は、その名の示すように潅漑用水として引いた「堰」に由来します。この堰、いまは、ずいぶんと補修されて「三貫堰川」と呼ば れ、東の杉沢地内杉沢川からの分水(上堰=うわぜき)が、山麓をしばらく流れ、上台を通り、二分流してそのひとつが、やがて三貰堰川に落ち、西の西沼に入ります。

  この三貫堰(川)は、藩政期には仙北領で金沢中野村地内、水元の杉沢川は平鹿郡領で杉沢村地内、隣接はしていてもまったくの他領・他郷だったのです。

  いまでこそどちらも横手市内なのですが、こうした地理的・歴史的な背景を背負っていたのですから、新田開発にともなう金沢中野村の潅漑用水を求める村としての苦慮・苦衷も、とうぜん他領・他郷というしきたりを越えねば解決出来なかったといえるでしょう。

  それが、杉沢川からの分水(上堰)というかたちで解決をみたわけですが、その三貫堰について、『六郡郡邑記』(平鹿郡編)をはじめ、『地名辞典』での解説などに、集落の実際とちがった記述がみられます。これらはただされなくてはならないでしょう。

  そんなことを考えながら、ぶらり散歩にでかけてみましょう。

  まず、「秋田県の地名」からみていくと、次のようです。「杉沢村(現・横手市杉沢)」の項のおわりの部分にある次の記述です。

  上台村は杉沢川の平地への出口右側山麓にある。『六郡郡邑記』には、先年開発のとき、金沢中野村の西にある西沼から潅漑用水を引いた代償として銭三貫文と蔵石山を支払ったので、山は仙北郡内となり、用水堰は三貫堰とよばれるとある。この堰が羽州街道と交差する西側に、現在三貫堰という集落がある。

〈「●杉沢村」『秋田県の地名』より〉

  「金沢中野村の西にある西沼から潅漑用水を引いた代償として」、〈銭三貫文と蔵石山を支払った〉ことを、『六郡郡邑記』(享保十五年=1730)の記述を根拠にしたとしています。

  しかし、[西沼から潅漑用水を引いた]とするこの記述だけでは、その「代償」のもつ意味も、また、「支払った」のは誰なのかも、このままではまったく不確かです。これは、「三貫堰」という「用水堰」の結果の記述を急ぐあまり、「先年(新田)開発のとき」の杉沢村・上台村と、金沢中野村のおかれた諸関係など省略のうえに省略がありすぎて、それぞれのもつ諸関係が見えなくなっています。

  まず、代償について。

  「西沼から潅漑用水を引いた代償として」の記述からは、〈代償〉のもつ意味がみえてきません。ここは、「杉沢川からの分水による潅漑用水を西沼から引いた代償として」のようにただされなくてはならないでしょう。分水は上堰そのものを指します。分水は標高差が明確に考慮されているのをみることができます(第一図:「西沼~三貫堰~上台=標高図」参照。あわせて第二図:「三貫堰概念図」)。

* 第一図 西沼~三貫堰~上台=標高図

* 第二図 三貫堰概念図 (作図 御所野・浦部昭二氏)

  とくに、「山は仙北郡内となり」は、まったくの誤記としてただされなくてはならないでしょう。もともとは仙北郡内の山であったものを、代償のひとつとして支払ったのですから、平鹿郡のものになったことは確かといえます。

  どうもあやまりのもとは、『六郡郡邑記』(平鹿郡編)にあったようにみられます。

○杉沢村
●上台村 蔵石山と云有り 先年開発地発る時 水本仙北郡金沢中野村より取る処の代に 銭三貫文と蔵石山を遣ける故 仙北山に指令さる焉。右堰は上台村の北の方にありて三貫堰と云。……

〈『六郡郡邑記』(平鹿郡編)〉

  この『六郡郡邑記』(平鹿郡編)には、西沼から用水を引いたとする記述はまったくありません。ただ、「水本(を)仙北郡金沢中野村より取る処の代に」とだけあって、用水の具体そのものがとらえられていな いのです。西沼そのことさえ記述されていないのですから。『地名辞典』解説者は、その不足をおぎなって、西沼を記述したものでしょう。それはそれとして、この(平鹿郡編)を記述した人には、藩政期における新田開発にともなう潅漑用水のたいへんさといった農民の目線をまったく欠いたとしか言いようのない姿勢がみてとれます。そこに記述のあいまいさというか、不確かさを生んだもとのところがあるように思われます。

   「銭三貫文と蔵石山を遣(やり)ける故に、仙北山に指令さる焉(か)」としていますが、ダレがダレに……ということが、まず不明確なのです。上台村の項であるから、「遣ける故」という代償の受け手が、なんとなくうかびあがるという厄介な記述なのです。

   「蔵石山は仙北の山」などとしてしまう、とんでもない認定の過ちをしてしまいます。これは、蔵石山(仙北領)を代償のひとつに支払ったのですから、とうぜん、結果として平鹿郡領杉沢村分となるのがふつうなのです。

   それでは、その金沢中野村についての『六郡郡邑記』(仙北郡編)の記述はどうなっているのでしょうか。おどろくことに、平鹿編とはきっぱりと記述が逆になっていることがわかります。

○金沢中野村  南は平鹿郡杉沢村の内三貫文関切、東は蔵石ヶ澤山と申(す)山 古来は当村分に候へ共 杉沢村より水を取開起立候付 右水代銭三貫文と蔵石ヶ澤山之平(ひら)(を)杉沢村へ遺(やり)候由 澤之内田地(は)当村分候故 三貫堰と云。 ・・・略・・・

〈『六郡郡邑記』(仙北郡編)〉

  「蔵石山」についても、「古来は当村分に候へ共」ともともとは金沢中野村分であったことを明記しています。「杉沢村より水を取り」とも明確です。代償としての「蔵石山」についても、「蔵石ヶ澤山之平」と明確そのもの。「山之平(ひら)」というのですから、なるほどとうなずけます。「平(ひら)」は山全体を指すというよりも、山の相当広い傾斜面を指すことばですから、山の西側は仙北分、東側分は平鹿分とこれも明確です。

  これらのことを、第三図「上台周辺図」でみると容易に確認できます。

* 第三図 上台周辺図 ⇒拡大図

  「上台周辺図」は、「横手全図」の字地名と、「横手市都市計画基本図(航空写真地図)」との合成図です。「鞍石沢」は大きく字地名として記載されているのがわかります。山名の記載はみられませんが、「鞍石沢」の示すものは「鞍石沢山」を含むものとみていいでしょう(「蔵」と「鞍」の表記は違いますが、「蔵石沢山」は古い表記と思われます)。「基本図」でも「鞍石沢」の字地名は、金沢中野村分であることを明記しています。

  「蔵石ヶ沢山の平」を地図上でみると、「鞍石沢(山)」の東側斜面であることがわかります。ここにも沢があり、杉沢分の市の沢がみられます。この市の沢入り口の近くへ杉沢川がぶつかるところに「揚げ」といわれる分水地点があります。『郡邑記』(仙北編)でいう、「杉沢より水を取(り)開(き)起立て候」の記述が、この場所・位置であったことを立証します。なお、「揚げ」の位置が、交換条件とした「鞍石沢山の平」入り口にもっとも近い位置であることなど、杉沢村側と金沢中野村側双方のおもわくの結合点であったとみられます。

  この「六郡郡邑記」(仙北編)の項の記述が正確ということになります。同じ、「三貫堰」についての記述が、「六郡郡邑記」の平鹿編の杉沢・上台村分と、仙北編の金沢中野村分とで、まったく違うというのはどうしたことでしょうか。

  まず考えられることは、それぞれの記録担当者が別々であったろうということ。まちがいを記述してしまった平鹿編担当者の場合、村人などから聞いたことを実地に確かめずに記録してしまったものでしょうか。当時の役目上からして、「境目奉行・岡見知愛」であったとしてもです。

  記述の不十分さをあらわすものに、もうひとつ、『六郡郷村誌略』(文化年代=1804~18頃)かあります。「三貫堰」の記述は、その仙北郡編・金沢中野村の項にはないのですが、平鹿郡編・杉沢-支村/上台の記述は次のようです。

○上台  先年田地開発ノ時 仙北郡金沢村ノ内中野ヨリ取ル 其ノ替地ニ蔵石山ト銭三貫文ヲ遣ス 右ノ堤ハ上台の里ニアリ 故ニ三貫堤ト称ス 北ハ金沢ノ内中野村倉石沢 西ハ同村法花塚古街道限郡堺ナリ

(『六郡郷村誌略』)

  「開発ノ時……中野村ヨリ取ル」のは、「用水」をさすものですが、その記述はされていません。とうぜんのことという前提なのでしょう。しかし、代償を「堤」としていて、「用水池(沼)」をさすような記述が気になります。沼なのか、堰なのか、実地に足を運んで確かめたなら、たちどころにわかったものだったでしょう。金沢中野村での記述はまったくありません。この「六郡郷村誌略」と『六郡郡邑記』とのつながりは不明です。

  終わりに、文化年代(1804~1817)の菅江真澄の『雪の出羽路』と、『月の出羽路』には、どのように記述されているのかをみてみます。

 〈『雪の出羽路』〉

○杉沢村 ●上ハ台村 家員九戸

蔵石山と云有り、 先年開地発ル時 水本ト仙北ノ郡金沢中野村ヨリ取ル処ノ代ニ 銭三貫文ト蔵石山ヲ遣ケル、故仙北ノ山ニ猶令サル焉。右堰ハ上ハ台村ノ北ノ方ニ在リテ三貫堰卜云。北ハ仙北郡金沢中野村ト山境蔵石ケ沢限ル、西ハ同郡金沢中野村ノ内法華塚古街道限ル。民家八軒卜見ユ。

  『六郡郡邑記』と同じような記述ですが、「蔵石ヶ沢」がはっきり地元の人から聞き取られているようです。全体としては、自分の足で三貫堰そのものを確かめてはいないようですが。

  では、『月の出羽路』では、どう記述されているでしょうか。

 〈『月の出羽路』〉

○金沢中埜村

「郡邑記」に、南ハ平鹿ノ郡杉沢村ノ内三貫関(堰也)際リ、東ハ蔵石山卜申古来ハ当村分ニ候得共、杉沢村ヨリ水ヲ取り堰起立候ニ付、沢ノ内田地当村分ニ候故 三貫堰ト云フ。……

  「郡邑記」をもとにしたとしていますが、簡略に走り過ぎた感がします。此処では、「蔵石ヶ沢」や「山の平」などの語が省略されてしまっていて、やはり、実地検分とまではいかなかったのではないかと考えさ せられます。

  終わりに、杉沢村への用水の代償とした「銭三貫文」と「蔵石ヶ沢山の平」を確認しておきたいものです。

  まず、「三貫文」ですが、これがなかなかむずかしいのです。貨幣は、時代によって大きく変動があるうえに、江戸と大阪でも一定しないといった事情があったようです。ただ、辞典などの解説を参考にして、一般的には次のようになります。

江戸大阪
銀銭金銭
慶長16 (1611)1両58匁
  19 (1614)甲州金48
元和2 (1616)161
正保2 (1645)162.454000
明暦1 (1655)1684000
元禄6 (1693)1604800
  7 (1694)164
  15 (1702)62.53929
宝永5 (1708)1170
正徳1 (1711)803200171.5
享保1 (1716)1132
  2 (1717)1652708
  12 (1727)58.24572
  18 (1733)1160.15000

  これは「古文書大字典」(柏書房)からのもの。「金一両=永一貫文」と出ていますから、一〇〇〇文=一貫文ということになり、三貫文は三〇〇〇文ということで、つまり、三両。しかし、相場表にもみられる ように、元禄十五年(1702)では一両=三九一九文、正徳元年(1711)では一両は三二〇〇文と変動の大きいことがわかります。金沢中野村の新田開発の時期は、享保十五年(1730)以前とされ、特定できないのですが、 三貫文=一両といった時代を想定してしまいます。はっきりしたことはわかりません。それに秋田藩の通貨事情が加わりますから、なおさら、わかりません。

  小判一枚=一両の藩政期、用水にあたま痛めた金沢中野村の人たちの金にかえられない時代の苦衷が、この「銭三貫文」にみえてきます。広い山地を持っていたという金沢中野村のふところ事情もあったに違いありませんが。

  もうひとつ、「蔵石ヶ沢山の平」。

  はしっている稜線の東側の「平(ひら)」全部(第四図・「蔵石ヶ沢の山の平=全図」を参照)。地図の左下に、その昔の杉沢城址で知られる小高い山が、上台から弥勒へ出るところで見上げられます。その城址東側にある細長い沢がそれです。道路側からは、沢の入り口しか見えません。

* 第四図 蔵石ケ沢山の平(ひら)=全図 <横手航空写真地図より> ⇒部分拡大図

  「蔵石ケ沢山の平」は南北に長く、以外と広いものです。上台村の人たちにも山地は、例えば、市の沢(山)もあったのでしょうが、代償に受け取る分には、この「山の平」には、それなりの好都合があってのことだったに違いありません。郡を越えての用水をめぐる大きなドラマのあったことを想像すると、この代償という事実を通しても農民の土にしがみつく、水にたよるしかなかった時代の哀歓、その切実さを思わずにおられません。この用水が可能になることで、まず三貫堰集落が出来、やがて、金沢中野新田村の誕生につながっていくのです。当時の新田開発に大きな展望と力を与えたといえるものです。

  終わりの終わりになってしまいましたが、地名辞典『秋田県の地名』(平凡社刊)の「●上台村の用水」についての記述を次のようにしたらと、参考までに示して、ほんとうの終わりにします。

●上台村  上台村は杉沢川の平地への出口右側山麓にある。『六郡郡邑記』には「先年開発のとき、金沢中野村から用水を引いた代償として銭三貫文と蔵石山を支払ったので、山は仙北郡内となり、用水堰は三貫 堰とよばれる」とあるが、これは誤記とされ、同書、仙北編の金沢中野村の記述、「上台村から引いた代償として銭三貫文と蔵石沢山の平を支払ったとされる」が正しい。


◇ 付記

①「三貫堰概念図」は、御所野の旧家で知られる浦部昭二氏をたずね、実地案内のほか、実際に書いていただいたもの。「概念図」でわかるように、分水された「上堰」が上台集落を抜け、三貫堰川に落ちるのが一目瞭然です。むかしは、分水検分のときは、杉沢村側と金沢中野村側から、それぞれ数人の代表が立ち会ったものといわれ、その分水には石組みが使われたと伝えられている、のお話しは貴重でした。

②「揚げ」と言うことばで、杉沢川からの分水を教えていただいたのは、市の沢入り口に住まわれる村田信一氏からです。「揚げ」ということばの意味するものは「水を川から揚げる」(別の堰の口に上げる)ことを指すもので、とおく藩政期の新田開発のため、用水を杉沢川に求めた人たちの、当時のことばそのものがそのままに伝えられていることにおどろかされました。

  村田氏のお住まいのすぐ眼下に「揚げ」があるのですが、氏の祖父の代(明治の頃)、「山守」(やまもり)を金沢中野村から任命されていたといわれます。それに、苗圃の経営にもあたられ、現在も継がれておられるとか。

  「揚げ」によって上台集落の道端を流れる「上堰」(うわぜき)はさらに分流し、そのひとつは向きを山側に変え、しばらく山に沿って流れていくのですが、急な崖に落ち込みます。その落ち込んだところが三貫堰川です。

  村田家の「山守」の役目は表向きであって、実はさりげないかたちでの「揚げ(分水)」の見張りを兼ねた監視・管理にこそほんとうのねらいがあったのでないかと考えてしまいます。

  これは推測に過ぎませんが。

  すこしさかのぼっての、藩政期の「揚げ」の管理の実際がわかれば、三貫堰誕生のもうひとつの姿が明らかにされるというものです。

③「蔵石ヶ沢山の平」を詳細な地図上で発見・確認できたことは大きな収穫でした。「横手市都市計画基本図(航空写真)」と、字地名のくわしい「横手全図」を見せていただいたことによります。市役所建築・用地課/石上廣氏(故人)のお力添えです。


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