山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(1) 十一面さん

  愛宕大橋を渡るとき、横手川上流の左手前方に小高い山が見えます。また、新本郷橋を渡ると横手清陵学院高校がすぐそこで、その小高い山が校舎のま後ろになります。それが「十一面さん」の山です。もと「湯の平温泉」のあった、そのうしろの山です。

  その西の山裾にもと大沢小学校があり、その脇を北上線が走り、その下を一〇七号線、さらに横手川をはさんでブドウ園、その先に見上げられるのが旭岡(あさひがおか)の山です。道と川とブドウ園をはさんで山がふたつ向き合っているかっこうです。

  旭岡山は梵天で知られますが、「十一面さん」の山も古くから、地元大沢・羽根山の人たちはもちろん、本郷・前郷の人たちにも親しい山だったようです。もちろん、横手の町の人たちの信仰も篤かった「十一面さん」の山です。

  どうして「十一面さん」なのか、旭岡山とのつながりなど少したずねてみることにします。

  まず、『横手市史』からみていくと、次のようです。

高照山神社 (十一面社)    横手市大沢
十一面観音を祭り、歴史は古く、旭岡明寿院の末院、久林山大沢寺(共に廃寺)が、この社のはじめと言われる。小野寺景道が天文十七年(1548)再興し、多くの参詣者で賑わったことが「十一面社御縁起」に書かれている。祭日は五月十一日。

  「十一面観音」を祀ったことからの「十一面さん」であることがわかります。しかし、旭岡山とのつながりもよく見えてこないのですが、古い時代の「十一面社御縁起」のあることが書かれ、それを手掛かりに少していねいに歩いてみたいものです。

  もと大沢小学校の裏側、新しい児童会館の道を少し行くと、「十一面さん」の山のふもとがあらわれ、山への上り口にあたるところに、「祢宜の家」(ねぎのえ)とよばれる鈴木林之助さんの家があります。そこの右手あたりから、もう参道といった感じです。が、今はお隣の高橋忠志さん宅の玄関前を横切って、家の裏からの参道がつづきます。少し行くと、登りがややきつくなるあたり、道は二手に分かれます。右へは曲がらずにまっすぐ進むと、いよいよ岩肌を見せる急坂となり、そこを少し行くと左側に小さな「山の神」の祠があります。そこからほどなく山の中腹あたり、深い杉林のなかに「十一面さん一の社殿が見えてきます。

  社殿に入ることもできませんから、祀られてある十一面観音を拝むこともできません。祭日を選ぶべきだったでしょう。



「十一面さん」社殿全景(提供・小川誠三氏)


  この「十一面さん」に古い時代の「縁起書」のあったことが知られています。それが、「十一面社御縁起」で、その全文が「山内村郷土資料集・第七輯」に収録されてあります。まずはその「御縁起」から、ゆっくり歩いてみることにします。

  その「御縁起」は、ひらがな文を主としたもので、まず、それをそのままにあげ、その次に少しは読みやすいようにしたものを参考までにあげておきます。

十一面縁起

  それもののらいゆを たつぬるに 心さしをつとめ 筆にあらはす ここに羽州平鹿郡横手の邑 とうなんにあたって がゞたるせい山あり その半ふくによぢて れいけんあらたの きうしやまします すなはち きう里山大たく寺これなり そもそも このみ山は きゆうかうざんまつ寺にて はんじやうとうひさし まことに前には流水きよくながれ なみじんあいのあかをそゝぎ うしろには がんせうたかくそびへて 嵐もうぞうのゆめをやぶる 大じ大ひの峰は ふたらくせんいつっべし ふもんぶんじ十一面くわんおんさった也 ことにはふさつしかばにましましては 四くさいなんをすくひ じやうどにましましては一さいしゆじやうをとすのみ これによって 天文十七つちのえ申のとし たうごくのたんしゆう おの寺じじゆうさきの かげみちあそん かさ年てこれを さうぞうしたてまつる まことに一でうしゆぎゆうのましにハ かんおうの月に くまなき六こんさんけのにわにハ もうぞうのつゆをむすばず 大ひおおごのあしたのかすみハ きうりんさんにたなびき れいけんぶさうのゆうべのきりハ せんふくつにはれ このゆへに へったうすゞきのしやうしけたけ たたくしんめいぶったのかごをかんじ かつふハたゑんとふつすふつしゆを つくなかいかんや しのうこうしやう きんきし よくわのみにいたるまで たれかこれを しんぜざらんや 春にハ都鄙ゑんきんしそ わうらいともから あをしべし よつてゑんぎのしい しゆくだのことし
  天文十七年戊申九月十一日
              別 当 し け た け
                うやまって
                    ま う す

  「十一面御縁起」の記述は、ひらがなを主とした表記ですが、なぜ、このような表現形式をとったものなのか、くわしいことはわかりません。書き出しは「旭岡山御縁起」 (『雪の出羽路』)とまったく同じてすが、ひらがな表記には、とくべつな意味がこめられたものかとも思われます。まず、声にして読み上げるという形式をとったもののようにも思われます。また、語るということ、音声を通すと言うことで、当時のたくさんの人たちの篤い信仰に訴えるかたちであったものかも知れません。

  この時代の書きものの表記の特徴のいくつかはわかるのですが、どう読んだらいいのかわからない部分もかなりあります。なんとか漢字をあててみると次のようになります。

十一面観音御縁起

  それものの来由を尋ぬるに心ざし(志カ)をつとめ、筆にあらわす。

  ここに羽州平鹿郡横手の邑(さと)、東南にあたって、峨々たる青山あり。その半腹に攀じて霊験あらたかの旧社座(ましま)す。すなわち旭里山大沢寺これなり。

  そもそもこの御山は旭岡山末寺にて繁盛等久し。まことに前には流水清くながれ、波塵埃の垢をそそぎ、うしろには、岩礁たかく聳えて嵐妄想の夢を破る。大慈大悲の峯は補陀落山とも言うべし。普門ぶんじ十一面観音薩陀也。ことにふさつしかばに座々(ましまし)ては四苦災難を救い、浄土に座々(ましまし)ては一切衆生をトすのみ。

  これによって天文十七年戊申の年、当国の檀宗(主カ)、小野寺侍従さきの景道朝臣、重ねてこれを創造し奉る。まことに一条修行の岸には観応の月にくまなき、六根懺悔の庭に妄想の露を結ばず、大悲大護のあしたの霞は久林山(旭里山?)にたなびき、霊験無双のゆうべの霧はせんふくつに晴れ、この故に別当鈴木の姓、重武(しげたけ)神明仏陀の加護を観じ…………(中略)……。

  士農工商、欣喜し、宿痾の身に至るまで、だれかこれを信ぜざらんや。春には都鄙遠近緇素、往来のともがら仰ぐべし信ずべし。よって縁起の恣意(思惟)しゅくだの如し。

     天文十七年戊申九月十一日
          別当  し げ た け
               敬って 申す

  「御縁起」では、十一面さんの山はそんなに高い山でもないのに、「峨々たる青山あり」といったふうに漢文調で、やや誇張的です。なかなかの名文といえるもので別当重武の学才がしのばれます。

  ここでは「御縁起」の解説をはぶいて、この書かれた「年代」について、少しふりかえってみることにします。「天文十七年」とあるのですが、この頃は戦国時代後期、あの織田信長が勢いを強めていた頃にあたります。ここ横手地方では、沼館より横手平城に移ったとされる小野寺泰道(やすみち 平城を造るとき、城南の地に大義山正平寺再建)が、文亀元年(1501)に没したとされますから、その約五〇年後が「天文十七年」です。この地方(平鹿・仙北・雄勝)の領主が小野寺氏で、泰道の頃が小野寺家最盛期とされているようです。泰道のあとが景道で、「御縁起」に出てくる、「当国の檀宗小野寺侍従さきの景道朝臣」がそれです。

  〈侍従(じじゅう)〉とか、〈朝臣(あそん)〉などは尊称であると同時に、その人の経歴をも語ります。景道はかなりの経歴の持ち主であったことがわかります。少し先を急いで、景道の子・稚道(わかみち カ)については「小野寺盛衰記」(深沢多市著)では次のようです。

小野寺正系図云ふ。
稚道
中宮亮。父景道に若而離れ、京都に登り、将軍家に奉公。其内晴道小野寺代官也。稚道下国の後、仙北横手に居住。天文十五年(1546)五月廿七日生害也。

  景道の子が稚道。横手平城を攻められ、湯沢で生害(自害)といわれ、その一子四郎丸は庄内羽黒山へ落ち延びます。しかし、このあたりから古記録はあやしくなり、湯沢で生害したのは輝道であるとか、また、輝道の四男が景道であるとする異説もあります。ここでも先へいそぐしかありません。

  少し、整理します。

  泰道景道稚道輝道義道

  さきの「小野寺盛衰記」では累代の領主をこのようにおさえます。

  ここで、ようやく「天文十七年」にもどることになるのですが、これもいくつかの説があって、ひとつの推測として次のようになりましょう。

  ○ 天文十五年(1546) 横手平城の戦いで稚道敗れて自害。一子四郎丸(のちの輝道)羽黒山へ落ち延びる。
             ↓
  ☆ 天文十七年(1548) 「十一面御縁起」が書かれる。
             ↓
  ○ 天文十八年(1549) (三年後)四郎丸、横手平城を攻め取る。輝道を名乗り、龍崎城(横手城)を造る。

  この時代的な位置付けで「御縁起」をみると、わからないことが浮かび出ます。それは、生害した稚道のこと、一子四郎丸のことは何一つ書かれていないことです。しかし、さきの領主景道のことのみが中心の 「御縁起」ということはどうしたことでしょう。次の年の横手平城奪回につなげて読むとすれば、そうした時代的な位置からは、「御縁起」は小野寺家再興のための“祈願書”であったのでないか、または“檄”(時代的アピール)ともみられます。ひとつの推定です。

  さきの「小野寺盛衰記」は続けていうのです。

按ずるにこの辺のこと甚だ不明である。而して古文書は現存しないが、事実であると考へられる記録がある。それは平鹿郡大沢村、即ち今の山内村大字大沢の十一面社に関して『雪の出羽路』の記事である。

 ○十一面社
大沢邑に座り。いといと古きみやところなり。旭岡山明寿院の末院にして久林山大沢寺と云ひしは此十一面社の創めなり。天文十七年戊申(1548)秋、小野寺前侍従藤原景道朝臣再建ありて貴賎うち群れ歩をはこびし事、天文十七年九月十一日、十一面の社の別当鈴木重武が誌る社記に見えたり。右社旧刹の地とのみ伝へ語れど、其蒼創をしらずといへり。なほ考へしるさましき事にこそ。
  祭日四月十一日 祠官 蔀(しとみ)重昌(しげまさ)

  『雪の出羽路』での記述を高く評価していることです。ということは、「十一面社御縁起」そのものを指しているわけで、「事実であると考えられる記録」のこれからの「小野寺研究」の重要な史料といえるもので、今後の研究に期待されるものです。

  ちょっとした山ですが、横手の古い時代へと誘ってくれる「十一面さん」の山でもあるわけです。

  愛宕山からでも、愛宕大橋からでも、本郷からでも「十一面さん」の山はよく見えます。もとは山の下に「湯の平温泉」があって賑わったものですが、今は清陵学院高校が川べり近くに建ち、古い「十一面さん」の山もにわかに若々しさを見せるかのようです。校舎前を〈みずほの里ロード〉が走り抜け、東の山を縫うように田沢湖へ直通です。

  謎をふかくこめて「十一面さん」の山は、古くからの「峨々たる青山」であることは今もかわりません。


外部リンク

単語検索


ひらがな/カナ:
区別しない
区別する