山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(15) 切支丹首塚

  十二月八日は太平洋戦争の始まった日。日本が引き起こした中国をはじめ、アジア諸国への無法な侵略戦争。このあやまちを二度とくりかえしてはならない不戦の誓い、平和の意味がふかく問われるとき、ことも あろうに、暮れも迫るとジングル・ベルが急に鳴り出して、カミ様、ホトケ様の国がとたんにキリスト国に一変するのが、戦後この方の日本といえます。なんのことはない、キリスト生誕をかついでのモウケ主義のノサバリそのものでしかないのですが。

  横手で、クリスマスの前夜、ロウソクを手にしたキリスト者一団が信者の家を回り、戸外で賛美歌を合唱するといいます。想像しただけでも雪の中に揺れるロウソクと賛美歌は美しいといえます。病院の何階かの病室から、この賛美歌を聞いたことがあります。病室にとどく雪の賛美歌を美しいものだと感じたものでした。

  しかし、この横手でも、かつて切支丹弾圧の歴史がありました。市の郊外安田原に伝わる〔首塚〕もそのひとつです。これも地名とはいえないでしょうが、そこを少し散歩してみようかと思います。

  まず、『横手郷土史』によれば次のようです。

…横手地方即ち昔の仙北にも(切支丹信仰は)相当盛んであったことはパジェス…の記述の中に左のごとくあるようによって想像するに難くない。
一、慶長十九年(1614)ペトロというもの仙北に来り、六百人を感化せしといわれている。
一、アンゼリスが津軽の外出羽の方へ巡回した時に、伏見生まれのペトロと会見した。
一、ガルバリョは西の丸殿(久保田城主妻妾)を激励して信仰を主張せしめ、それから仙北地方を巡回した。
一、院内で召し捕った廿五人の中廿三人は、鉱夫の常として多く故郷を名としていた。
    関東、大阪、仙台、仙北、越後……
一、ガルバリョは、寛永元年(1624)水沢から横手へ越える山中で捕らわれ、仙台に送られた。
一、寛永元年(1624)八月十六日、仙北善知鳥(うとう)の切支丹信徒十三名を横手で斬った。
一、同年八月十八日、平鹿郡臼井村の農民切支丹十四名を横手で斬った。
一、同年八月四日、仙北寺沢村信徒十四名を久保田城外に於て斬罪……

  〔横手で斬った〕については、「同書」で、〔安田村に張付八十ヶ余り、其外打首数十人掛さらし…〕とありますから、今に伝わる安田原の[首塚]の話そのものはうなずかされるものがあります。

  切支丹の刑場は、安田原とあるけれども、その場所は今日判然とはわからぬ。同所に埋塚と称する場所があって、ここは戊辰の役の戦死者をも埋めた處だそうだが、余程古い刑場と思ふ。そこには古い松が二本立って居り、その根 を掘った時に、無数の白骨があらわれたといっている。

(「同書」)

  「古い松二本」のことを書いています。少し南にさがると、そこはもう石切り山でしょうか。このへんの開発が進んで、いまでは昔の草深い面影などなにひとつ残されてはいないようです。そのことが、また哀れさをさそいます。

   『横手市史』の「第一節 各地区の沿革/四、栄地区」の項に「切支丹塚」がみえます。

切支丹塚

  石切山の南の丘陵にカトリック教会の墓地がある。頂上には傘松があり明治天皇御巡幸のとき御覧になった由緒ある老松である。今はなくただ小さな地蔵尊の祠が淋しく祭られている。西の背面には二本の松があったが、これも昭和三十年ころ伐採されている。ここは「埋め塚」のある場所である。

  元和八年(1622)切支丹等が数十人蛇の崎橋上に集まり一揆を越こし、騒ぎ立て城代須田美濃守盛秀にことごとく召し捕られ、城外安田原で処刑された遺骸を埋めた塚ともいい、天明、天保の飢饉で餓死行倒れの死骸を埋め た塚ともいわれている。

  傘松も、二本松も今はすでにないということです。ただ、「埋め塚」に小さな地蔵尊がさびしげに建っているのも、あわれさをいっそう深くするかのようです。

  もうひとつ、『横手郷土史』の次の記述が目をひきます。

  横手地方には、その当時の遺物および口碑というものはほとんどないようであるが、近ごろ、春光寺および桃雲寺から、不思議な仏体があらわれた。春光寺のものは、丈一尺三寸(約33.3センチ)の木造だが、両手はとられ、頭および顔は左右から削られ、その装束はまったく西洋式のもので、その塗料といい、彩色といい、まったく日本のものとは思われぬ。どうしてもマリヤの像のように見える。

  春光寺は当時、前郷にあったのであるが、切支丹信徒は官憲の圧迫に堪えず遁走し、または捕縛せられる時に聖像の処置に窮して、その面体を破壊して群像のなかに隠したものにちがいない。桃雲寺のものは丈四寸九分(約15センチ)の木造であるが、やはり両手を取ったもので、容貌装束はまったく西洋式のところから見ると、これもマリヤのようである。おそらくこれも信徒たちが同様の方法をとったものと思われる。

  前郷に、もとあったといわれる春光寺ですから、農民信徒だったのかも知れません。また、桃雲寺は内町(士族町)でしたから、士族の信徒によるものだったのでしょうか。これらは不明です。

  なお、横手町内番匠町に、切支丹屋敷というのがあり、横手付近車長根というところにも、切支丹塚といわれている所がある。 (「同書」)

  「番匠町」(ばんじょうまち)は今の南小学校の北側のあたり、中の橋に近いところにあったようです。古い地図には示されています。番匠は今でいう大工職を指すようです。外人宣教師がいたものなのか、信徒の屋敷なのか、いっさい不明です。「車長根」はどこなのでしょう。

  さきの春光寺に、切支丹禁令ともみるべき、『耶蘇教禁令 東照権現様 御掟十五個條』という御触れ書きがいまに残っているといわれます(「同書」)。〔耶蘇教〕とはキリスト教のこと、〔東照権現様〕とは徳川家康におくられた勅諡号、つまり“おくりな”)のこと。「同書」には、その十五ケ条の全文が記載されていますが、終わりには、『右之通慶長年中被仰触候御条目亦々今度厳重被仰渡候』とあって、明和九年(1772)と、文化十二年(1815)の日付が追記されています。「禁令」ではありますが、切支丹弾圧のおおもとを示すものとして、横手にとっても重要な文化財のひとつではないかと思われます。

  ここまで、横手の切支丹迫害・弾圧の歴史を少し歩いてみたのですが、やはり、「首塚」は言い伝えとしては残されてきたもののはっきりしません。ただ、横手カトリック教会創立六十周年記念誌「鐘のたより」十六号に掲載の資料に、「安田原墓地」のことがあり、引用させていただくと次のようです。

昭和二七年九・二安田原字柳堤三番地を安田原墓地として買い受ける
同 四四年八・一五安田原墓地に「横手殉教徒の碑」建立
同 六〇年八安田原墓地を横手市前郷墓園へ移転
(『横手郷土史資料77号』〔「横手における明治以降のキリスト教小史」森田 博 より〕

横手殉教徒の碑  くわしいことは、よくわかりませんが、安田原に「横手殉教徒の碑」の建立は、近世に人って以来の、横手の“殉教”の歴史に基づくものに違いありません。意味の大きいものを感じます。それに、八月一五日の日を選ばれたことは決して偶然というものではなく、忌まわしい戦争の終わった日としたことに、「殉教碑」の意味深さを知らされます。

  カトリック・キリスト者たちの歴史へのくもらない真実の強さを、そこに見ることが出来るといえましょう。

  ところで、

  四十九年前の十二月八日朝五時頃、ラジオで軍艦マーチを放送しだしたのに目を覚まし、聞いてみると“日本が真珠湾を攻撃して大戦果をあげた”と放送……とうとう始まったなと思つていると、ドンドンと表戸をたたく音がする……外に出てみると、四~五人の特高と十人ぐらいの警官がとり囲んでいました。……

(札幌郷土を掘る会「かたむいた天秤」 副題/非国民とみなされた札幌弾圧犠牲者1,100名編・著者 寺沢廸雄)

  札幌のキリスト者、その関係者たちはみな捕らえられたということのように、キリスト信徒弾圧は、決して遠い昔のことだけではないということを知らされます。

  いま、この国の「海外派兵」が大きく問題となり、ふたたび平和の危機が叫ばれています。「憲法九条」の本当の意味が問われているとき、宗教者・キリスト者たちの発言がことのほかに注目されます。どの語り口も物静かですが、ことばの奥に秘められた、「血を流す」ものへの怒りのはげしく燃えているのを聞くことができます。

  「首塚」も、また、「殉難の碑」も、この町の信仰の迫害・殉難の歴史の消すことの出来ない歴史の一ページを刻みつけているのですから、語り継ぐべきことのたいせつさをひしと感じさせられます。


外部リンク

単語検索


ひらがな/カナ:
区別しない
区別する