第四章 地名めぐり・町名めぐり(6) 石町碇大橋を渡って、まっすぐに行くと石町の踏み切りにぶつかります。踏み切りを渡って左手へ曲がると、南の方に上真山が見える広い畑に出ます。上真山のその南は、もうすぐ駅です。その広い畑のまん中に立っ ているのが、石町の地名のおこりとされる「石」です。
「地番で示すと、横手市八幡(やわた)字石町三ノ七である。石の寸法は、高さ2m60㎝、巾は下部の広いところで80㎝。上部の狭いところで63㎝。石の立っている塚の周囲は、約2m50㎝である。」 (「横手郷土史資料・第54号」/表紙解説より) 石町は、中世の頃の町として古記録に出てきます。『奥羽永慶軍記』という軍記ものに、天文年中(1532~54)の横手平城奪回のいくさのもようが次の記述に見られます。 …横手町構に攻め入り、関根町に放火すれば石町、本町、荒町の数百軒余、烟天をかすめ焼亡す・・・ この記述にしたがえば、中世、すでに石町の名があったことがわかります。「横手町構」は、今の平城を中心とした町を指すようです。 建石古肆(たてし ふるまち) 八幡邑 さすがの真澄も首をひねっているのがわかります。この石は何なのか?そこにあるわけは?・・・。博識の真澄の問いかけにも石は答えてはくれなかったようです。ただ、中世、平城や朝倉城にいた小野寺氏の頃、なにか商家が建てたものか、と推測しています。商家には、それらしい目印(商標)が必要なのだから・・・というわけです。「小野寺の時代(ときよ)は肆人(あきびと)の住家たらむか」がそれです。「肆(し)」〈・ならべること。・品物を並べた店。・みせ。〉(「広辞苑」)とあり、「肆人」とは商店・商家の人を指すわけですから。真澄が、〔八幡邑〕の見出しに使った〔建石古肆〕は、そのことを語っていると言えましょう。真澄らしい考察といえます。 市の教育委員会が建てた、石町の石についての史的説明板(案内板)には、真澄の推測については退けているのがわかります。 石町の建石 (たていし) (八幡字石町) 横手市教育委員会 真澄の示した推測に従うとすれば、「石町の建石」では不十分で、ここでは「建石古肆」でなくてはならないでしょう。つまり、〔古い商家が印(標)として建てたのかも知れない〕ということです。真澄は、いっさいが、「判らない」としているのではないのですから。真澄の推測を離れて、「何のために建てられたのか」は少し早計かも知れません。そこにある「石」は、人為的なものか、自然がそうさせたものか、ここはどうしても「石」にたずねてみる必要が先ではないのでしょうか。「石」は何かを語ってくれそうに思います。 ところで、横手の歴史家たちは、石町の「石」について、横手川の流路とのかかわりについての考察をあげているようです。そのいちいちについて触れることはできませんが、いくつかについて、その要点をあげてみると次のようです。 ① 「・・・この石は横手川が今の流れでなく、石町のあたりを流れていた頃、船の繋ぎ石か、あるいは灯台の役目をしたか、いずれ川や船に関係ある石と思われる。古老は鳥海山が火をふいたとき飛んできたという」 (「横手ものしり事典」=伊沢慶治著) ② 「横手 旭川は、昔は停車場の辺より八幡村の方に流れたりしが、それに長く土堤を築きけり。故に横土堤といひし、何時しか『よこて』となれるものなりしとぞ」 (「横手町郷土誌」 第十三章・四/伝説より) ③ 「・・・私の推定であるが、・・・工業高校の付近から横手駅付近にかけて、前郷囲の内、上飛瀬、下飛瀬という地名がある。(中略)そこで、横手川(山川卿があったころの)は、本郷橋の所から、 西に向かって西ヶ坂、三井寺、大乗院塚の下を流れ、現在の神明社のある所、そこから横山を流れて駅の西に出て、今度は流れをかえて正平寺付近から大水戸町、平城を抜けて石町を通り、余部(黒川)へ流れて行った」 (「横手の歴史」=伊沢慶治著) ④ 「……江戸時代初期(1600年頃)には、横手盆地では成瀬川、皆瀬川も西よりに流れを変えたが、横手川も少しづつ西北よりに流れを移したのではなかろうか。その結果、主要路は元の高等小学校付近(前郷字礼堂/現在の横手工業高校付近)から、平鹿総合病院方面、そして大水戸町のあたりから八幡方面へ流れたものと推測される。」 (「横手川の用水・堰ものがたり」=半田作治著) 各項の要点をあげてみます。 さきにあげた「横手川」の考察でも、とりたてて洪水によるとする「石町の石」とはしていませんが、しかし、あれだけの石を運ぶ自然現象として考えられるのは、やはり横手川の大洪水が運んだ結果とみるのが一番自然ではないでしょうか。それほどの大洪水のあったことを伝える、ひとつの裏付けとして「白髭水(しらひげみず)」洪水伝説があります。 白髭水(しらひげみず) 洪水伝説。雄勝郡雄勝町秋の宮の浅萩の白髭大明神が、又右衛門という信者に洪水のあることを告げたが、これを信じなかった人々は濁流に流されてしまったという。また、仙北郡協和町荒川に大洪水があった時、白髭の老人が大樹の根に腰を掛けて下っていったとも伝えられる。白髭の老人は、水の霊の姿となっている。 (「秋田大百科事典」) おとなりのもと山内村南郷にも、「えんつこ大明神」という白髭水の洪水伝説を伝えています。横手にも大洪水のあったことの例証といえましょう。なにも白髭水洪水伝説だけでなしに、それこそ遠い遠い有史以前の大洪水も確かにあったことでしょうから。 そこで、横手高校の地学ご専門の高橋洋二先生にお聞きしたところ、たくさんの資料・写真入りの説明をいただくことができました。さすが、ご専門なだけに、ずばり! というものです。ここでは、まとめの部分のみということになります。 石町の「石」について (横手高校・地学担当 高橋洋二) 石町の「石」は、ずばり、“硬質泥岩”(石英安山岩質凝灰岩を含む)。いただいた資料・写真・地図などに目をはしらせると、Sm(硬質泥岩)は、“碇橋から大鳥井山にかけての河床”にみられ、石町の「石」とは近い距離にあることがわかります。ひとりぼっちではなかったわけです。また、Am(泥岩)の市東縁部山地、横手川市内上流部の河川などでの分布もみることができます。それに横手高校地学班の生徒らによる実地研究でも“滝ノ沢”の滝にみられる断層崖の石も、石町の「石」とおなじ、凝灰岩を含む泥岩であると、つきとめています。 |
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