山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(3) 沼山

  前項で述べた「きゃのづるさん」と清陵学院高校の裏の「十一面サン」の山との間を流れてくる川が沼山川で、その源流部に沼山があります。もともと、大沢村の一集落でした。地図でみるとかなり広い山あいの集落であることかわかります。東に松川・落合から登る薊峠(あざみとうげ)がありますが、今は登る人も稀なようです。地図では薊峠の近くに「沼台」の地名もあり、「沼山」集落は、その西側です。北側に沼がふたつ。この地図では見られません。

沼山周辺地図


  この「沼山」の古いすがたから見ていくと、次のようです。『雪の出羽路』(文政七年=1824)《ななのかみ杉》大沢編です。

○ 沼山邑 家員古十軒 今七軒

  大沢の東に在る村なり。郡邑記に「天和三年(1683)忠進開」と見えたり。ここに沼の平(ヌマノタヒ)といふ地(ところ)に、雌沼(めぬま)雄沼(をぬま)とて二つの沼あるをもて沼山の名はあるなり。雄沼は大沼にしてさし亘(わたり)二十尋(ひろ)ばかり、その深さ斗り(はかり)もしらず。此沼に綿の如なるもの浮きありく、そをもて綿沼とはいへり、いといとあやしき品(もの)なり。此処(ここ)にいたりて雨乞すといふ。女沼(めぬま)の四五間四方にてささやかの沼ながら、寒中(ふゆ)凍る事なきは清水(しみず)あらむといへり。

  天和(てんな)の年の「忠進開」(ちゅうしんびらき)を伝えています。新田開発には、「指紙開」(さしがみびらき)と「忠(注)進開」(ちゅうしんびらき)のふたつの形があり、沼山での「忠(注)進開」のように開発高(生産高)がそのまま開発者の知行高とはならなかった、といわれます。藩政初期には指紙開が多く、その後の藩の財政事情と重なるなどして、天和の頃は忠進開にかわったとされています。ここ沼山の開発者は、横手の給人かと思われま すが、くわしいことは不明です。が、沼山の人たちの菩提寺は観音寺と言われています。この寺は、茂木百騎で知られる茂木氏による開基とされますから、関係がありそうです。くわしいことは、やはり不明です。

  次の地図に「雄沼」「雌沼」があらわされていて、なんとかわかります。古い地図ですが、沼山へはいるあたりの「きゃのづるさん」の100メートルの稜線かみられ、沼山集落の北には180メートルの台地らしい稜線が見られます。愛宕山裏、諸子沢から登ると378.5メートルの三角点に出ます。このあたりから、広い台地が眼下にひらけます。北に「雄沼」「雌沼」が見えます。『雪の出羽路』で真澄は「沼の平(ぬまのたい)」としていますが、この大きな谷の底の《平(たいら)》からきた、《平(たい)》ともいえるし、大きな台地状ともみて《沼台》といわれるようになったのかも知れません。

  この沼台の東側の尾根一帯は「風吹(かざふき)」と呼ばれているところで防火線となっています。風が強く、いつも尾根でうたっているので、その名があるのでしょう。ぴったしの名付けです。この稜線の東側が沼山、西側か横手睦成分となっています。「風吹(かざふき)」の名の示すように、気象条件に変化が激しく、竜巻などの発生が知られます。古老の話として、「沼台から、竜(たつ)、天サ上って行ぐけ・・・」と伝えられているほどです。秋から初冬にかけて発生しやすいといわれます。

沼山周辺詳細地図


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