山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(10) 二日町

  二日町とか四日町・五日町といった町名のおこりは、市日の名残りといわれます。「横手郷土史資料/第32号」(昭和35年刊)の「横手の市場(あさいち)」の項に次の記述があります。

  …元来多くの市(いち)は一定の日をとってもうけられたものが多く、回数によって「六斎の市」等といわれたものである。横手市の四日町は、四の日に市場が開かれた過去の名残である。しかし、横手の諸般の情勢は、月数回の開設では著しく不便であり、勢いの赴く所、毎日の開設を見るに至ったものであろう。

  市場の起源については、明確に古文書、その他によって知ることは不可能な場合が多い。横手市場についても、古くから記載されたものはなく、最近の情勢を知り得るに過ぎない。現在の形態は明治十七年に始まるという。…」

  「横手の朝市」は有名で、毎朝のように道の両側に出店がだされ、近郊の村々からのとりたての野菜が並べられるなど、大にぎわいだったものです。「大町と四日町に交互に開設される」(「同書」)とある記述は、昭 和一〇年頃のことのようです。

  ところで、二日町はどこにあったものでしょう。

  寛文九年(1669)「横手城下町絵図略図」によると、〈東ノ方二日町〉、〈西ノ方五日町〉か見え、一里塚が示されていますから、現在の鍛治町通り辺かと思われます。古い時代の市場の名残でしょう。道の両側に向かい合って〈二日町〉、〈五日町〉があったとはおもしろいものです。これより古いとされる〈二日町〉の記述は、『横手市史』(第七節 横手の市場 ○市場の起源)から拾うことができます。

横手城下町絵図略図 東の方二日町位置図


  横手蛭子神社の古記録に「小野寺遠江守義道公御建立、同天正十九年(1591)五月、御宮入・・・」、また、「慶長五年(1600)三月出火仕り、御宮家居共、不残消失仕候。出火以後二日町在所立除、唯今正平寺双(ならび)ニ居住仕候」と記している。

  蛭子神社は、現在もつづいて田中町(もと七軒町)に建っているが、前の記載によると、天正十九年(1591)の当時は、二日町(最近までは栄通町)に建っており、慶長五年(1600)の火災後は、正平寺並びに居住したというのである。

  二日町にあったとする蛭子神社の古記録をあげています。記録として書かれたものというのですから、横手市でも一、二番に古いものといえるのではないでしょうか。年代をまとめてみます。

  天正十九年(1591)五月 小野寺義道、二日町に「蛭子神社」建立。
  慶長五年(1600)三月 火災による宮居消失。正平寺並びに移転。

  慶長七年(1602)は佐竹氏が秋田に入り、横手城にいた小野寺義道は石州津和野(いまの島根県)に配流の身となります。戦国期、横手城最後の城主ということになります。佐竹氏が秋田入りし、横手に城代(所預)を置くことになる、その十年前の二日町の姿が記述されている古記録といえます。

  その頃の二日町はどこにあったのか、「市史」にしたがえば、〈栄通町〉となっています。寛文古絵図の〈東ノ方二日町〉は、天正十九年からは約八〇年後ですから、大町と四日町とが合わさる〈栄通町〉辺と見られなくもないでしょう。大町から延びる羽州街道沿いとみて大きな間違いはないといえましょう。

  蛭子神社の祭神〔蛭子(ひるこ)〕というのは、「イザナギ、イザナミ二神の間に生まれた第一の子。三才になっても脚が立たなかったと伝える。中世以後、これを恵比須(えびす)として尊崇」(「広辞苑」)とあって、商売繁盛の神(七福神のひとつ)として祀られたとされます。大町、四日町の南につづく二日町の、新しい発展へのいきおいを神社建立にみるのですが、立ち退きを余儀なくされた神社の火災は、歴史の非運ともいえましょう。

  二日町の盛況ぶりをみることができる、「六郡郷村誌略」(文化年代=1804~18・頃)には次のように記述されています。

○ 横手 家二千五百戸  市日 一、三、五、八、十二斎立

 大町 百二十一戸     四日町 百十八戸
 二日町 七十八戸     柳町 二十七戸
 裏町 五十五戸      後町 二十戸
 川原町 十戸       田中町 十六戸
  町家スヘテ四百五十戸 外に鍛治町、前郷町アリ(略)

  これは、町人町の戸数を示したもので、ほかに、内町の侍町をあげていますが、ここでは省略します。

  二日町は七十八戸の町家数があったと記され、大町・四日町につぐ盛況ぶりを示しています。鍛治町・前郷町は略されていますが、「百姓町屋に入込、混シテ知リカタシ」 (百姓の家が町家に入り込んで、混じて知ることができない)とただし書きがあるので、当時の鍛治町・前郷町の入り込んだようすがわかるというものです。

  市日は、一・三・五・八のつく日で〈十二斎立〉であったことを示しています。ただ、さきの寛文九年「横手城下絵図」についての解説として、「・・・川原町、大町、四日町、二日町、五日町、柳町、うら町などのほか、・・・純然たる町場だけとは言えないが、大町、四日町の両町を中心とする商業地域で、ここに三・五・八・十日の十二斎市が開設され・・・」(『秋田県史・近世編』)とあるので、十二斎市の立ち町には変わりはないのですが、日にちには違いがみられるようです。

  古い時代の十二斎市も、商業の活発化にともない、その市日も毎日となり、やがて大町、四日町と交互にひらかれるようになっていくのと同時に、二日町、五日町もその町名を失なっていったものでしょう。

  内町の人たちは、毎日のこうした朝市を「立ち町」といったもので、そして実際、立ち町(朝市)に買い物に行くことを「町立ち」といったものです。内町ならではのこうしたことばも、今はもう聞くことができません。

  蛭子神社は、かまくら館のま向いに今も建っています。町発展の要の頭脳集団を集めた市庁舎がま向いですから、二日町以来の歴史の変転を思わずにいられません。社殿の前にたつと、「恵比須神社」の大きな横額がみえ、その末文に、昭和五年建立の文字がみえて社殿の新しい再興を物語っています。


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