第四章 地名めぐり・町名めぐり
(12) 川原町
横手川(旭川とも)が貫流する横手の町ですから、川の名のつく町の名前がいくつかあげられます。まず、大鳥居山に近い古川町(いま新坂町)、上の橋を内町に渡ったすぐの町が川端町(かばた町。いま羽黒町) お城山の下、横手病院の向こう岸が川原町(いま大町下丁)。この三っつの町は昭和四〇年の新住居表示実施によって消えてしまった町名でもあります。でも、新しい町内もあります。清川町、旭川町など。
ここでは、消え去ってしまったうちのひとつ、川原町の歴史を少し散歩してみることにします。
「川原町」と明示されている地図をみることはなかなかできません。明治年代の「横手全図」などにも川原町は見えません。しかし、もっと古い嘉永二年(1849)の「横手御城下絵図」(秋田県立図書館蔵)に大町や四日町の大きな町の記載と並ぶかのように川原町の図示されているのをみることができます。お城の下の横手川の対岸にそれが見えていて、特別な意味があるかのように図示されています。
⇒拡大図
おそらくこの「御城下絵図」の作図者は、川原町が横手城との関係のふかいことについて理解をもっていたのでないかと思われます。
これは、となり山内の農民たちの薪の川下げにあったのでないかと考えられます。「春木川下げ」とも言われ、その大量の薪の川上げ場所が川原町だったのです。『山内村史』には次の記述がみられます。
春木下げ/材木流し 大量の薪を一手に川下げをする農民の薪の届け先は、横手お城の御本丸御番木、二の丸御焚用、御内町の焚用と、いずれも横手のお城にかかわりのある武士であった。川上げする場所は横手川原町だが、川流しの季節は四月十日前、八十八夜以前までと限定されていた。
農民だけの川下げであれば問題はないが、内町旦那衆の材木流しと重なるために、川がふさがれて薪流しはできなくなる。農民たちは、一〇人ほどの材木商を「以前は薪流しの障りにならないように材木流しをしていたが、今では斟酌(しんしゃく)しない」と非難している。
…人の背で運ぶか、馬の荷駄として運ぶかしなければならない山路や坂道の多い山内各村々の農民が、大量の薪を一度に運ぶには川流しの方法しかなかった。…往時、(川原町)河畔には人家がなく、山内から旭川を流してきた木の置き場になっており、その木は薪(張り木)であったから、川岸は張り木によって堤防をなしていたのである。
「横手御城下絵図」での小さな川原町の町名図示が特別な意味をになっていたことがよくわかります。
城で使う木材、それに焚き用の薪、内町の武家の屋敷で使う焚き用薪、それにそれら一年間分の大量の薪材が、川原町で川上げされたのですから、決して小さな存在の川原町ではなかったことがわかります。「川岸は張り木によって堤防をなしていた」というようすが見えてきます。それに材木商たちとのいさかいにも神経をとがらせたこともうなずかれます。
川原町は、旭川が観音寺側にぶつかって曲がる、その川原の出来易い条件をもっていたため、薪の川上げには適していたし、城の真下という好条件もあったわけでしょう。いつ頃から「春木川下げ」がはじまったかについては不明ですが、城が城として働きはじめた頃から行われていただろうとは考えられます。
「沢内年代記」(岩手県和賀郡沢内)の宝暦十三年(1763)の記録に次のように見られるので、これ以前にすでにあったことは確かでしょう。
「六月四日晩ニ洪水出。七日ヨリ拾四日迄大雨、但シ拾壱日川尻村ヨリ水上リ不引。横手町大町小路春木流ル。三橋共ニ落ル…」(下巾本)
※註=「六月四日洪水出る。…ただし、十一日、川尻村より水上がり引かず。…横手町大町小路の春木流れる。三つの橋ともに落ちる。…」(※これは現代文に訳したもの)
文中の〔横手町大町小路の春木流れる〕に、〈春木川下げ〉のすでにあったことが記録されているのをみることができます。〔大町小路〕は〈川原町〉を指していると読めるし、横手も洪水のため、積んで置いた張り木を流失してしまったことを伝えています。〔三つ橋〕は、上の橋、中の橋、蛇の崎橋の三橋かと思われるのですが、あるいは、本郷橋、上の橋、中の橋の三橋であったかも知れません。当時、隣国であった沢内の人たちをも驚かせた事件として、胸いためているようすがわかります。
この堤防をなしていた薪(張り木)が燃え上がってしまう大変事がおこります。文久元年(1861)とされる古記録として、「横手川原出火之覚」と「川原町薪焼失ニ付金子拝領並借用帳」(山内筏村伊藤与右衛門家文書)の二つがあるのですが、ここでは、「出火之覚」について見てみます(「山内村郷土資料 第六輯」による)。
横手川原町出火之覚(文久元年)
一 丙(ひのえ)五月十二日夜九ツ時出火也 川原町廿一軒 薪五尺竿而千五百張計リ焼申候 同十三日 屋形様(横手城代戸村公)御下御座候 川原町薪大焼ニ付 中ノ橋御渡可申様無御座候故 浄光寺橋御被遊候(略) 仍而人足之儀 横手寄郷八十八ケ村ヨリ惣人足而火(カ)け被下 其外浅舞村 増田村之方ヨリ参被下候 焼跡 計付共々
一 同十六日 大水出来仕候而……薪ハ同日様様(ようよう)留 十七日少々流木仕候(略)
一 同十八日又大洪水罷成候 ……薪五六十張流木仕候(略)
この「覚」のはじめにある〈文久元年〉の“えと”は〔辛酉〕(かのととり)で、「一 丙(ひのえ)五月十二日」の“えと”とちがいます。「丙」は〔丙辰〕(ひのえたつ)で、これは〈安政三年=1856〉を指し、五年前になります。「日記帳」であるため、あとから書きうつしたことなどによる“えと”の誤記によるものなのか不明です。ただ、「日記帳」の表紙に「安政三年 辰正月」が見えるので、〔丙辰〕がはっきりします。こうなると、この「出火之覚」は、文久三年ではなく、安政三年ではないかと考えられますが、どうなのでしょうか。
それは、まずおくとして、[出火之覚]の内容にうつります。
「夜九ッ時出火」と見えますから、これは夜中の十二時を指します。古文書資料は漢字ばかりですが、佐川良視さんが次のように解説してくれています(「同資料」)。
「四日町の仁三郎という人の貸家が川原町にあって、万助という者が住み、山内村の木流しの定宿であった。だが、宿主から、この定宿をことわられたため、一人も泊めておかなくなった文久元年五月十二日夜、その万助の家から出火し、人家廿一軒を焼き、川岸に積まれていた薪木三千五百張、あるいは三千七百張ともいわれたが、ことごとく焼いてしまった。現在の市価、張三千円にして実に一千百万円にも相当する損害で、山内村の木流し人の被害は甚大なものであったと想像される。
横手城代は戸村十太夫義効の代であったが、藩主義尭公は、江戸からの帰秋の途にあり、明日は横手城下に入るという前の晩の、しかも城の真下の大火であったので、戸村城代をはじめ家臣のおどろきは想像されるものであった。
城代自身も中の橋を渡られず、迂回して浄光寺橋(上の橋)を渡って現場に出、消火を指揮しているほどである。
薪木の所有者、山内村の人たちの災害の痛手は非常なもので、城代からも見舞いの金子五両を下渡されている。(略)この火災のあった三日目の十六日と、十八日には、今度は洪水で薪木の流失という重なる被害をうけている。(略)
たいへんな大火であったことがわかります。
「三千五百張、あるいは三千七百張とも」というのですから、被害の大きさはたいしたものです。〈一張〉は辞典にはみえないことばですが、薪木をつんだ一間分〈いっけんぶん〉。(一間は六尺=約1.8メートル。)おそらく、川原町の川原も、土手のうえの町そのものもみな薪木の積まれた所だったに違いありません。城代戸村十太夫義効(よしかた)をはじめとする家臣たちのおどろき、それに、藩主佐竹義尭(よしたか)の江戸からの帰秋にぶつかるなど、さわぎをいっそう大きくしたものだったでしょう。
さらに、追い打ちをかけるかのような洪水。火と水に攻め立てられた川原町ということになります。
川原に自由におりられ、川と生活をともにしてきた川原町の向こう岸に小学校が建ち、公立横手病院が建ち、それに消防署まで建った一時期かあり、めぐりあわせの不思議さを感じもしたものです。この川原町も
護岸工事のため移転を余儀なくされ、旭川町ほかに散り散りになってしまい、今は大町下丁の一部です。その移転跡に記念の碑が建っています。
○川原町移転跡地
川原町は、文献によると藩政時代初期と推定される横手古図に道が見られ、寛文九年(1669)の横手絵図面に川原町の町名と家屋一一戸が記されているなど、その発祥を、約四〇〇年もさかのぼる古い歴史のある町でした。
横手川は明治以降約十五回にわたる洪水の記録を残していますが、特に昭和二二年及び四〇年の洪水氾濫により、その治水が改めて問題になり、昭和四四年より秋田県による河川改修事業が着手され、昭和五一年より本格的な改修工事が施行されました。
川原町地区は、家屋移転の始まる昭和五四年頃には五〇軒程の戸数を数えましたが、事業については御理解が得られ、昭和五九年には家屋移転が無事終了しました。
関係者の御協力により、河川改修工事は順調に進み、特に川原町は最も川幅が狭い場所でしたので、工事竣工後は洪水の氾濫もなく、改めて治水事業の重要さが認識されました。その後、昭和六二年度には建設省により、「ふるさとの川モデル事業地区」に撰定され横手を代表する景観の一つとして、うるおいのある水辺空間に整備されました。
平成七年一〇月
跡地碑には河川改修工事事業に力点がおかれ、川原町の古い時代の歴史が多く語られていないのは少しさみしい感じがします。
整備された川岸には桜が植樹され、川波のしずけさ、ふかいみどりのつくりだす空間とが、ありし日をしのぶかのような静かなたたずまいを見せています。
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