山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(14) 若勢市

  旧藩時代にすでに成立していたとみられる横手の「若勢市」(わかぜいち)は、全国的にも特異なもので、“奇習”とまでいわれたようです(若勢とは字のとおり、若い働き手のことで、いまはほとんど使われなくなっ てしまったことばです)。

  この若勢市は地名、町名とはいえないでしょう。今はまったく見られない、「若い働き手=若勢」を買う、「市」(いち)というのですから、それが横手のどこで行われていたのかということになれば、その「市」の立っていた場所は特定できるようです。地名でもない、町名でもない、「若勢市」の歴史を少し散歩してみることにします。

  まず、「横手市史」(第七節 横手の市場 二、若勢市)の項では次のようです。

○若勢市と市場

  市場は古くから続いて盛んであったが、また若勢市も行われていたことが、「羽州問状答」(文化十二年=1815)の十二月の中に、
「この月、平鹿郡の横手城外に人市という事あり。一季、半季の奉公人にて、人々その市をゆきかへりて、己がほしと思ふを価を定め約する事に候」
と記されている。

  若勢市は、十二月に行われているが、日は特に定まってはいない。若勢希望者が当地に多く集まる日は、この月の二十五日のようである。それは、その年の若勢の雇用期間の切れた日でもあり、年末も近づいて、市場の人出の多い 日でもあるから、特に多く集まったものと思われる。

  「人市」(ひといち)を、そのまま訳せば、“人の売買”ということであり、ドレイ制社会をそこにみるようにも錯覚するのですが、実際は若勢を親方(地主)が一定の条件を決めて雇うことですから、「若勢市」のこと ばがぴったしです。

……年によってその数は違うが、戦前は、市場に若勢希望の者が、二〇~三〇人は出ていたようである。市場の十字路などの人通りの多い一か所に、若勢が集まり、若勢を頼みたい親方は、若勢を手招きして交渉し、話し合いが決まると、市場の中にある居酒屋などで、主従両人で酒をくみかわして、簡単な契約をする。 (「同書」)

  「…若勢の出所は、隣村の山内村などの山村であり、その需要範囲は旧旭村、旧境町村、平鹿町、雄物川町、大雄村などの農村部が多かった…」(「同書」)といわれ、二町歩~十町歩の田地を経営する大きな地主に雇われるわけです。「耕地の少ない農家の若者は、一家の生計、貢租米を得るためには、他家へ若勢奉公の道を求めるよりなかったのであろう。

……働き分を米で貰い受けて帰り、上納米のたしにするか、飯米に当てることが必要なことであった」(「同書」)とあるように、若者は自分の労働力を売ることによって、それに見合う報酬を得たわけです。文化年代(およそ1800年代)横手にもっとも古い出稼ぎのかたちが、すでにあったといえなくもないでしょう。

  「一季・半季」は年季奉公を指していて、ふつう、一年間とか、半年間の雇用期間をいうようですが、なかには三年ぐらいの期限で雇われる若勢もいたといわれます。境町が横手市に合併する昭和三〇年ごろ、境町上八丁などには若勢がみられたもので、家族から、「あんこ」と呼ばれるのがふつうであったようです。

  「増田町郷土史」(昭和47年=1972刊)にも「若勢市」の項があって次のようです。

  毎年詰の二五日に増田四ッ谷角に若勢市が立った。主に山村や横手付近から、毛羅・笠・肌子・股引・腹掛と云う装束で、衣類、夜具などを携え集まってきたもので、若勢を欲しい親方達は見込みのある若者を手招きして、「ンが、年何ンぼだ。オレは亀田の誰某だ、一年相続で八俵けるがら、オラ家サ来ねが」「ンだバ、エグ」と対話で契約か成立すれば、付近の町村の親方達に雇われて散って行く(この奇習「若勢市」は昭和元年頃まで続いた)。

  地主制の発展していた平鹿郡では、横手だけでなく、増田、浅舞にも若勢市が立ち、その若勢は、主に山村などの小作、貧農の次、三男であったといわれます。増田四ッ谷角での若勢市の親方との対話は、方言そのもので表現されていて、短いやりとりの中に、当時の人間関係がみごとに活写されているのをみることができます。

  もうひとつ、横手の若勢市(明治36年=1903}のようすを伝える「十文字町郷土誌」(昭和33年刊)の〈横手の若勢市のこと〉のなかでは、市の場所の特定もみられます。(註=明治36年の「横手の若勢市」の原本は、「植田の話」(近泰知著)〈明治37年擱筆〉。復刻版は昭和60年〈1985〉刊。)

  ……横手附近の山村より、横手上丁小刀堰橋畔を中心とし、秋の彼岸の中日を初日とし、約三日間、大谷村、山内村、仙北東南の山村若勢(即ち農業熟練者)-十五才の成人振り(野郎子若勢)より、三十才前後の青壮年(本若勢)百余人、毛羅 笠 肌子 腹掛 股引装束にて夜具を携え、拱手佇立し、傭者の懸け口を待つ。…(略) 是れ需要供給の自然的慣行なりといえども一奇習にして外国のいわゆる人身売買にもあらず、秩序整然たるものにして全国の一名物たり。

  その若勢は皆純朴にして怠業せず多くは数年同一の家に雇われ入り婿となるものさえあり。植田村にてもみな横手に至り此の若勢を選抜す。

(「植田の話」より)

  「十文字郷土誌」には写真ものっています。写真は、秋田魁新報・昭和五年(1930)九月二七日付に掲載されたものの原版のようです。これは、「図説・秋田県の歴史」にも使われています。若勢市を伝えるなんとも貴重な写真といえます。さきの『植田の話』によれば、明治の終わり頃の小刀堰橋畔といいますから、それは横手大町上丁ということになります。

  この写真では、その場所かどこなのかは、はっきりしませんが、大きな通りは大町のようです。若勢希望の人たちの群れであることはわかります。写真の見出しに、「今年は買い手のすくない若勢市」とあるのですが、若勢を雇う親方衆、つまり“買い手”が少ないということで、昭和五年前後の世界的な大不況のひとつの現れであったのかも知れません。この翌年、東北地方はたいへんな冷害に見舞われています。

県南の若勢市(わかぜいち)を伝える昭和5年の秋田魁新報


  「図説・秋田県の歴史」(昭和62年=1987刊)の〈若勢市〉の項の終わりの文は次のように結ばれています。

  …年雇は雇主の居宅に住み込むのが普通で、その給与は地域によって同一ではないが、三度の食事を給したほか、「一ヶ年玄米三斗入八俵ヨリ十二俵マデ」(「秋田県農事調査」)とい うのが多かったようである。なかには、仙北郡刈和野辺りのように「馬野郎コ」(うまやろうコ)と呼ばれ、「着る物と三度の食事だけで、米など一俵も貰わ」ぬ(佐藤金勇『北洋の出稼ぎ』)、年若い年雇もあるなど、労働条件には恵まれ ていなかった。

  したがって、大正期にはいり、北洋漁業や京浜工業地帯など比較的高い賃金の得られる職場が開けてくると、年雇はしだいに解体されていったのである。

  若勢奉公のなかには、たとえば刈和野辺りの「馬野郎コ」のような、横手での「アンコ」の愛称に似た言い方とはまったく違った若勢仕事のきつい側面のあったことも知らされます。それに、「米など一俵も貰わ ね」と言った若勢ばたらきのあったことなど、若い労働力のたいせつにされなかった時代があったことも知らねばならないでしょう。

  横手大町上丁・小刀堰橋畔に立って、山村小作、貧農の次、三男坊たちは、どんな親方と行き合えるのか、はたして雇って貰えるのか、じっと流れる水をみつめつづけたのだったかも知れません。今、その水は流れていません。

  横手の人市ならぬ、若勢市も、今は歴史に名を残すのみです。


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