第四章 地名めぐり・町名めぐり(14) 若勢市 旧藩時代にすでに成立していたとみられる横手の「若勢市」(わかぜいち)は、全国的にも特異なもので、“奇習”とまでいわれたようです(若勢とは字のとおり、若い働き手のことで、いまはほとんど使われなくなっ
てしまったことばです)。 ○若勢市と市場 「人市」(ひといち)を、そのまま訳せば、“人の売買”ということであり、ドレイ制社会をそこにみるようにも錯覚するのですが、実際は若勢を親方(地主)が一定の条件を決めて雇うことですから、「若勢市」のこと ばがぴったしです。 ……年によってその数は違うが、戦前は、市場に若勢希望の者が、二〇~三〇人は出ていたようである。市場の十字路などの人通りの多い一か所に、若勢が集まり、若勢を頼みたい親方は、若勢を手招きして交渉し、話し合いが決まると、市場の中にある居酒屋などで、主従両人で酒をくみかわして、簡単な契約をする。 (「同書」) 「…若勢の出所は、隣村の山内村などの山村であり、その需要範囲は旧旭村、旧境町村、平鹿町、雄物川町、大雄村などの農村部が多かった…」(「同書」)といわれ、二町歩~十町歩の田地を経営する大きな地主に雇われるわけです。「耕地の少ない農家の若者は、一家の生計、貢租米を得るためには、他家へ若勢奉公の道を求めるよりなかったのであろう。 毎年詰の二五日に増田四ッ谷角に若勢市が立った。主に山村や横手付近から、毛羅・笠・肌子・股引・腹掛と云う装束で、衣類、夜具などを携え集まってきたもので、若勢を欲しい親方達は見込みのある若者を手招きして、「ンが、年何ンぼだ。オレは亀田の誰某だ、一年相続で八俵けるがら、オラ家サ来ねが」「ンだバ、エグ」と対話で契約か成立すれば、付近の町村の親方達に雇われて散って行く(この奇習「若勢市」は昭和元年頃まで続いた)。 地主制の発展していた平鹿郡では、横手だけでなく、増田、浅舞にも若勢市が立ち、その若勢は、主に山村などの小作、貧農の次、三男であったといわれます。増田四ッ谷角での若勢市の親方との対話は、方言そのもので表現されていて、短いやりとりの中に、当時の人間関係がみごとに活写されているのをみることができます。 ……横手附近の山村より、横手上丁小刀堰橋畔を中心とし、秋の彼岸の中日を初日とし、約三日間、大谷村、山内村、仙北東南の山村若勢(即ち農業熟練者)-十五才の成人振り(野郎子若勢)より、三十才前後の青壮年(本若勢)百余人、毛羅 笠 肌子 腹掛 股引装束にて夜具を携え、拱手佇立し、傭者の懸け口を待つ。…(略) 是れ需要供給の自然的慣行なりといえども一奇習にして外国のいわゆる人身売買にもあらず、秩序整然たるものにして全国の一名物たり。 (「植田の話」より) 「十文字郷土誌」には写真ものっています。写真は、秋田魁新報・昭和五年(1930)九月二七日付に掲載されたものの原版のようです。これは、「図説・秋田県の歴史」にも使われています。若勢市を伝えるなんとも貴重な写真といえます。さきの『植田の話』によれば、明治の終わり頃の小刀堰橋畔といいますから、それは横手大町上丁ということになります。 「図説・秋田県の歴史」(昭和62年=1987刊)の〈若勢市〉の項の終わりの文は次のように結ばれています。 …年雇は雇主の居宅に住み込むのが普通で、その給与は地域によって同一ではないが、三度の食事を給したほか、「一ヶ年玄米三斗入八俵ヨリ十二俵マデ」(「秋田県農事調査」)とい
うのが多かったようである。なかには、仙北郡刈和野辺りのように「馬野郎コ」(うまやろうコ)と呼ばれ、「着る物と三度の食事だけで、米など一俵も貰わ」ぬ(佐藤金勇『北洋の出稼ぎ』)、年若い年雇もあるなど、労働条件には恵まれ
ていなかった。 若勢奉公のなかには、たとえば刈和野辺りの「馬野郎コ」のような、横手での「アンコ」の愛称に似た言い方とはまったく違った若勢仕事のきつい側面のあったことも知らされます。それに、「米など一俵も貰わ
ね」と言った若勢ばたらきのあったことなど、若い労働力のたいせつにされなかった時代があったことも知らねばならないでしょう。 |
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