山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(2) きゃのづるさん(峡蔓山)

  横手駅から東へのびるまっすぐの道があります。どこまでも行くと、左手に愛宕大橋が見え、すぐに庁舎前です。この道を、なおまっすぐに行くと川に出て新旭川橋にぶつかります。この橋をわたると広い畑の向こう、右前方に清陵学院高校校舎、左手に新しく開通した“みずほの里・ロード”のトンネル入り口が見えて来ます。そのトンネルの山から高校のうしろの十一面さんの山へからまるように延びている低い山を「きゃのづるさん」といいます。十一面さんの山へからまるように見えるのですが、実際はそこで切れて、沼山へ入って行く道となっています。ちょうどV字型にみえ、そこから沼山川が流れてきます。

  旭川が本郷橋をくぐって東の山にぶつかり、そこに河蝕崖をつくるのですが、そこを「へぐり」と呼びます。その「へぐり」から延びる低い尾根がつくる狭い谷をはさんで、もうひとつの細長い尾根が十一面さんの山腹にからむように延びて、さながら蔓を思わせます。「峡の蔓(かいのつる)」と見立てた、「峡蔓山(かいつるさん)」が「きゃのづるさん」と音変化したものでしょう。それに、だれにもわかりやすい「貝」の字をあてて「貝蔓山」としたのもひとつのくふうだったのかも知れません。

  低くからまるような尾根を、ひとつの蔓(あるいは“弦”)に見立てた、この名付けには驚かされます。

  『横手古図』(「横手郷土史」149ページ)は年代不祥ですが、かなり古い時代のものであることがわかります。この『古図』には《介ヅル》と示されているのですが、絵図を書いた人は地元の人の言ったままを書き込んだものらしく、その絶妙な名付けのわけなどは理解できなかったようです。藩政期(江戸期)に入ってからの『横手古図』のようですから、「峡蔓山」の名付けは、さらにもっと古い時代であったことがわかります。十一面さんの山をふくめて、「峡蔓山」は、もともと大沢村の山だったのですから、この名付けはきっと大沢村の人達だったのかも知れません。新しくできたトンネルのすぐ近くに、赤い鳥居が建っています。[きゃのづるさん]への入り口です。すこし登ると山の中腹に、お堂が建っています。春先のお祭りには幟がたちます。この「きゃのづるさん」のことを『雪の出羽路』(文政七年=1824)で菅江真澄は次のように記述しています。

大沢邑 ○貝野弦山(かいのつるやま)稲荷大明神 祭日六月朔日、祭主横手給士富岡伝右衛門。此(この)貝野蔓はいかなる山の名ならむ。螺(かい)石なンどありけるか、また山の峡(かい)てふ事にて峡の連峯(つるね)をいへるか、さだかにそれを知れる人なし。(中略) 近きとしならむか此 貝野弦の稲荷ノ社(方二間ばかり)の萱葺替(かやぶきかえ)のとき、天井の板の上(へ)に狐と小蛇(をろち)の骨あり、闘ヒ死たる形(さま)にて、狐の頭と蛇の頭と打並て死にたり。あやしき事と俚人(ところびと)かたりぬ。

  真澄の「貝野弦山」「貝野蔓山」と、「峡の連峯」といった論究もさすがにしっかりしています。「貝ノ蔓」(きゃのづる)とする表記のもとになったのが、真澄の論究をもとにしたものだったのかも知れません。もうひとつの論究としての「峡の連峯」(かいのつるね)は、「連峯」(つるね)の読みは古語をもとにしたものと思われます。学の確かさ、ふかさがわかります。「峡」は「山峡」(やまがい)からで、【山と山との間。やまあい。】(『広辞苑』)の意、ですから、「貝の」とするよりは、「峡の」とするのがしぜんです。山あいの低い尾根が、まるでからみつくように延びた「連峯」(つるね)を、[蔓]と見立てた「峡の蔓」=「峡蔓」(かいつる⇒きゃのづる)が一番しぜんではないでしょうか。

  後段の「狐と小蛇「ヲロチ」の頭の骨の話など、妖しい不思議話に心ひかれている真澄の深い探求心をのぞかせます。

  「きゃのづるさん」の今の祭主は(この山の持ち主でもある)大沢の高兵さんといわれます。大沢の肝煎を代々継がれてきた家柄で、古い文書類もたくさんお持ちです。


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