山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(9) お城山

  「城山」の語に、尊敬・敬愛の意味の「お」をくっつけて、「お城山」と呼んでいます。これはふつうの呼び方で、正式には「横手公園」です。といっても、これは明治以後のことで、もともとの古い地名をもう少し追っかけてみることにします。

   『横手郷土史』の〈古蹟〉の項には次のように記述されています。短い記述ですが「お城山」の歴史をひとことで言っています。

「朝倉城-蛇ノ崎橋の東方にあり。弘治元年(1555)、小野寺景道が居をここにトせしより、三百年余城堡ありしが、戊辰の役に落城したり…(略)」

〈*註 ・「景道」については「輝道」とする異説があるようです。 ・戊辰の役=明治元年(1868〉〉

  記述のまっさきに「朝倉城」とあって、お城山の古い地名をあげているのですが、これだけではよくわかりません。「秋田県の地名」の〈横手城跡〉の項の説明では次のようです。

  横手城下の東端、ほぼ中央の朝倉山の上にあり、背後(東側)は急崖の谷を隔てて奥羽山脈に連なり、前面を流れる横手川が、城の西方でほぼ直角に流路を変えてまもなく蛇の崎の橋があり、竜ヶ崎城ともいう(「雪の出羽路」)。山の名から朝倉城とも呼ばれ、また城壁に石垣を用いず土居削崖に韮(ニラ)を土留として植えた平山城なので韮城とも呼ばれ、朝倉城が転誂して阿桜城ともいわれる(「横手郷土史資料」)。

  山の名から朝倉城、蛇の崎の淵にちなんで竜が崎城とも。城壁に土留めの韮を植えたので韮城とも。ひとつの城にこんなに名があるのもおもしろいものです。朝倉が転誂して阿桜城とも。この転誂はまずおくとして、少し先を急いでみます。朝倉という山の地名については『横手郷土史』の〈横手〉の項の次の記述が目をひきます。

…このほかに古い地名を求めるなら「朝倉」という名に逢着する。もとよりこの名が村の名になったのは明治以後のことであるが、知られている範囲内において、本来は横手山城(横手公園)の名称である。その城を朝倉城と称したのは朝草の語から出たといい、千手沢(朝倉村)に朝草の橋(「雪の出羽路」)というがあり、また同処、無量寿院の後方山上に朝草刈の城趾(実は先住民族館阯)があるけれども、朝倉という語は浅倉とも書き、非常に古い言葉で、朝草の転誂とは考えられない。天智天皇の御製にも
  朝くらや木の丸殿にわがをれば名のりをしつヽ行くは誰が子ぞ
と見え、九州・四国・中国各地において、郡名・村名として昔より存するもの多く、後世他の言葉から転じたとするのは無理である。朝倉城の築かれた山地にあった名か、山麓の部落名かはわからないが、築城以前からの地名であっ て、本郷と明永との中間に位置したものと推定していいかと思う・・・

(編纂委員/大山順造)

  「朝倉」は「朝草」の転誂とは考えられない、と明確です。近くに〈朝草橋〉があったり、また、〈朝草刈城趾〉(じつはチャシ阯)につながるとしても、「朝倉」は遠く万葉にさかのぼる古い語との考察はさすがです。この古語の指し示す意味についてはふれられてはいないのは残念ですが。「朝倉」は築城以前からの語であって、本郷・明永と言った古い時代、その中間の位置にあった、とする推定です。

  地名「朝倉」、また、村名「朝倉」という古い語についての決着は、まだついていません。今後の大きな研究課題のひとつといえましょう。

  ここからは、朝倉城(横手城)の歴史をかけ足でたどってみることにします。

  輝道の子義道は、天下分け目の関が原の戦いの翌年(慶弔六年=1601)正月、徳川家康の勘気に触れ(石田三成に一味したという理由で)石州(今の島根県)津和野藩に預けられます。雄名をハせた小野寺氏の非運はいたましい限りです(義道の子孫はずうっと健在で、いまは神戸在住の小野寺勝氏は裁判所判事)。

  かわって慶長七年(1602)、佐竹義宣が常陸国水戸より秋田への転封となります。家康のいじめによるといえるものです。

  横手城は佐竹藩の支城となり、城代(じょうだい)〔所預〈ところあずかり〉とも〕を置きます。また、元和六年(1620)には藩主義宣が「自ら縄張して大改築した要城」といわれます。古い時代の地図にも「横手御城下絵図」とあるように、〔横手城〕と呼ばれたものでしょう。「六郡郡邑記」にも「守堡戸村十太夫 知行高六千三百石余 二ノ丸ニ居住ス家臣徒(かち)以上百三十人 但シ勤仕ノ者斗(バカ)リ・・・」とあって、城代を守堡(しゅほ)とも書いています。また、「横手城高サ十八丈……寛文十二子七月十九日 戸村十太夫義連ヲ居ラシム 其後代々戸村氏守堡タリ」(「同書」)とも書かれています。

横手絵図 部分図


  戊辰(ぼしん)の戦い(明治元年〈1868〉)で落城となる戸村大学で十二代目。大学は戊辰の戦いの明治元年八月三日に城代を継いだばかりの十九歳。非運の落城は八月十一日、「戸村大学、此の城に拠り、奥羽連合の大軍と悪戦し、本丸、二の丸の堂宇、兵火のため柵を残したのみで全焼」(「横手郷土史」)。同書にはもう少しくわしい「戊辰の役」の項があって、若い大学の姿も記述されています。

……敵の砲弾本丸の屋上に破裂し焔々として、燃え上ったから、黒沢惣兵衛に命じて自焼さした。……二ノ丸の屋上にも敵弾破裂して燃え上った。大学 乃(すなわ)ち是までなりと腹掻き切らんとしたるを、重士等、「戦は之に限るにあらざれば、こヽを立ち退いて後圖をなし給へ」と、刀を奪つて強ひて退去せしめた。(庄内戦争録。青柳手控。小味淵日記)

……大学、二十人ばかりに擁護されて城後の稲荷神杜の後ろに出たをり、横山喜四郎は飛丸に斃される。驚くほどに大勢の仙台兵一人も遁さじと取り囲む。是ぞ最後である。花々しく闘つて死なんと呼ばりつヽ各勇を奮うて切り廻り、 大学手づから二人を斬る。敵兵その勢いに恐れて道を開いたから、免れ出ると、また伏兵起こる。かくすること二三回にして見入野に達し、それより山路を辿って仙北郡に入り、黎明、食邑高梨村樫尾久右衛門宅に着して休息した。 敵軍が城兵の悉く引き揚げたのを見て、一同に勝鬨を挙げて兵を収めたのは午後十時である。 …市中には唯仙台兵のみを残して、松平甚三郎は餅田村まで、酒井吉之丞は赤坂村まで退陣した。

 (出羽戦記。青柳手控。大瀬貴誠氏談)

  そのときの城の戦死者の墓は龍昌院にあります。

  大学の、その後については、「横手の歴史」(伊沢慶治著)からの記述を引いてみます。

  大学は、十三日に小杉山(仙北郡西仙北町小杉山)から境(仙北郡協和町境)に出て、唐松神社の別当(神主)宅に宿を取り、散り散りになった手の者を集めた。十六日に藩主・佐竹義堯(よしたか)公から大学に久保田に来るようお召しがあって、夜九時ころ、少数の供を連れて出発し、翌十七日未明に久保田に着き、午前十時に登城した。義堯公ただちに大学に引見し、
「わずかな兵をもって寵城したことは、大学のみならず、その組下の者まであっぱれだと感じ入る。武器のたりないものは兵具方から受け取るように。兵士たちも疲れていることだろうから、武器が揃うまで休息するように。このことは皆にも申し渡す」
と、ねぎらいの言葉をかけられたという。

  戦局は、やがて秋田に有利となり、会津降伏、他の諸藩も続々と降伏。戊辰のこの戦いも終わり、すべての残務が片付いたのは明治二年一月といわれます。(*註=戸村大学は明治38年に町長に就任。同39年没。)

  もう、すっかり、「お城山」からは遠くなってしまいましたが、この項のおしまいに、この「お城山」の公園化に尽力された人たちについて触れてみます。

  時代が変わり、「お城山」も旧士族の私有地になったり、その二の丸、武者溜まりの町への提供があったりなど、公園化への一歩がきざまれるようになるのが明治二〇年(1887)頃のようです。大正十二年(1923)には、町民の与論をうけて川上町長が公園化の巨額の予算を置き、「土地の買い上げ、石木の配置を為し」と大横手町建設の一策としての着実な具体化が為されていきます。なかでも昭和五年(1930)に浅利勇吉町長が、町長退任後も公園整備にあたった功績の大きさは特筆されるものです。公園に氏の顕彰碑があります。

「…氏は始め公園委員として計画の立案に参加し、計画の実施の責任をになって以来、今日まで、一日も公園に姿を見せぬことはなく、予算なきときは自ら寄付を募り、あるいは自ら鍬をとって、その整備にあたってきたのである…横手公園を大鳥井山および愛宕山に連結することにより益々その価値を高めるというのが氏の信念で、これが貫徹に寝食を忘れて勉め・・・」

 (「横手郷土史年表」)

  この大きな遺志は、みごと今日的であるといえるでしょう。さいわいなことに、お城山につながる大鳥居山の数次にわたる発掘がおこなわれ、新しい発見に期待が強まっているようです。しかし、愛宕山はまったく の手つかずのままで、荒れ放題。お城山も泣いているようです。


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