第四章 地名めぐり・町名めぐり
(7) 大鳥居山
今は“大鳥公園″になっています。
東側の《御所野安田線》からみられる台所館の丘陵部、西側の横手川を挟んで見られる大鳥井山、小吉山の丘陵部もともに古い時代の柵跡を彷彿させます。北側を吉沢川が流れて横手川へぶつかります。ふたつの川に挟まれた小高い丘陵は、さすがに要害といえます。
横手の遠い古代へと誘ってくれるここ大鳥居山ですが、少し歩くとさすがに伝承古記録の語る世界が息づいているのを感じます。
まず、ちょっとかけ足のつもりで事典で「大鳥居山遺跡」を見てみます。
大鳥井山遺跡 おおとりいやまいせき 横手市大鳥町。
遺物の範囲は大鳥山、小吉山、台所館の三つの独立丘陵を含む約二〇万平方メートルと推定される。土師器(はじき)、須恵器(すえき)、陶磁器などから、一一世紀後半から一二世紀中ころと思われるが、縄文期の土器、石器の出土も見られる複合遺跡である。横手川と支流の吉沢川に西と北側が挟まれているため、傾斜度が西側で六〇度の険しい崖(がけ)になっており、自然の要害である。調査は、大鳥公園造成に伴つて、一九七七年(昭和五二年)から横手市教育委員会が主体となり、第三次調査を実施。古来から大鳥井太郎頼遠(よりとう)の城館と伝承され、『陸奥話記』(むつわき)にみえる「出羽山北浮囚主 清原真人光頼 舎弟武則」の光頼(みつより)の嫡子頼遠がそれに当たる。後三年の役(1083~87)で敗北した清原一族の城館と決定するには至らないが、二重の土塁、空堀をはじめ三七棟の掘立柱建物跡、柵木列、竪穴住居跡、烽跡、井戸跡、土壙、溝状遣構、土橋などから大きな館跡であったことがわかる。(中略)この遺跡に関連深い金沢柵や沼柵、さらには、付近に分布する窯跡と条里制遺構を総合的に再確認し、後三年の役に関する遺跡群として掌握していく必要があろう。
(「秋田大百科事典」より)
事典は、「大鳥井山遺跡」の今と昔のあらましを簡潔に記していますが、〔・・・清原一族の城館と決定するには至らないが・・・〕ときびしい指摘もみられます。世界遺産となる平泉につながる地として、大鳥居山遺
跡が見直されようとしているのも、また確かです。
『横手郷土史』(昭和八年刊)にも、たいせつにみておきたい次の指摘があります。ここに少し立ち寄って見ることにします。
「・・・前九年役前後には、清原武則の兄光頼が 大鳥居山(おどりやま)の城(関根柵といひ朝倉村)に拠ったといひ・・・」
この「大鳥居山(おどりやま)の城」のふりがなのもつ意味について考えてみようと思うのです。(*ふりがなをつけられ、これを書かれたのは編纂委員の大山順造という方です)。
“おどりやま”のふりがなは地元の方言をとったものといえます。それともうひとつ、ふたつのことばが合わさる時、つながることばのはじめの音が濁音になるときがあって、「連濁」といわれます。「大きい-鳥居」が合わさって、ひとつのことばを作るとき、合わさる「鳥居」のトがドになります。“おおどりい”となるわけです。「青い-空」が「青空」(あおぞら)に、「大きい-空」が「大空」(おおぞら)になるのと同じです。方言は、さらに長い音を短い音に省略したり、また、完全にはぶいてしまったりと法則が働いて、このばあい「おどりやま」となってしまいます。
この「おどりやま」の指摘はたいへんだいじな指摘です。「大鳥居」のある「山」という地名の意味をしっかりと刻み込んだ「おどりやま」であって、決して「おとりやま」とか「おおとりやま」ではないという意味をこめられたふりがななのだと考えられます。「鳥居」であって、「鳥」ではないのですから。大山先生は、そう考えられたのだと思います。なお、『秋田県の地名』(「平凡社」刊)の「大鳥井山」のふりがなも「おどりやま」をとっています。
次に「鳥居」「鳥井」、また、「大鳥山」についてみてみます。
まず、手っとり早く『六郡郡邑記』(享保十五年=1730)には、その ○関根村 の項に「大鳥井山」がみられます。
○大鳥井山 民家三軒
○ 昔御嶽山鳥井有之旧跡の伝なり
ここでは「鳥居」を「鳥井」と、“居”を“井”に、略字化したものと考えられます。これをもとにした菅江真澄は、『雪の出羽路』では次のようです。
○大鳥居山村 民家三軒
昔御嶽山ノ鳥居有之旧跡ノ伝也と同書にあり。今は大鳥井邑なし。
さきの『郡邑記』での「大鳥井山」の「井」とした略字化を、もともとの意にもどそうとした真澄の意識のはたらいているのを見ることができます。ただ、「今は大鳥井邑なし」では略字化をとっています。
『雪の出羽路』では、ほかにも「大鳥山」とでてくるヶ所が多くあります。古記録からの引用の際などに多く見られます。しかし、この「大鳥山」を読むのに「おおとりやま」と読んだとは考えられません。真澄は、よくふりがななどして正しい読みを示すのですが、「大鳥山」にはそれが見られません。これは、もともとの「大鳥居山」(おおどりいやま)をもとにした、「おおどりやま」と読むのが自然でしょう。
また、次の場合はどうでしょう。
…大鳥山の城主、清原ノ祖家 大鳥太郎頼遠 も金沢同時に落城といへり・・・
(『白滝観音霊場縁起』並『正平禅寺古記録』〈「雪の出羽路」より〉)
ひとつは、①「大鳥山の城主」、もうひとつは、②「大鳥太郎頼遠」の場合についてです。①の「大鳥山の城主」の場合は、地名ですから、もともとの「大鳥居山」の略されたものと考えれば、とうぜん、「おおどりやま」か、あるいは「おどりやま」であるでしょう。②の名前の場合、これも地名をもとにしての呼び名ですから、「おおどりやまたろう」、または「おどりやまたろう」と呼んだものと考えられます。別の古記録では、「大鳥井太郎頼遠」と書かれたものもあります。書かれたままに読むとすれば、「おおどりい太郎頼遠」、あるいは、「井」は省かれたかも知れません。
出羽一国の主、清原宗家の城館をおいた「大鳥居山」は、その名のよってくる通り、御嶽山を祖神として成長した豪族といわれますから、“大鳥居”は東の御獄を仰ぐ一族の信仰世界の象徴そのものであったものでしょう。「大鳥居山」は単なる地名をこえて、清原一族の信仰世界を象徴するものとしての意味付けを刻みこめたものと理解されましょう。ですから、安易に、「大鳥」(大きい鳥)の美称にかたむいた「大鳥(おおとり)」の呼称をとらなかっただろうと考えるのです。
これまで見てきたように、大山先生の「大鳥居山」(おどりやま)のふりがなのもつ意味は、地元のことばを通して、その歴史的な意味付けを強調されたものと理解されます。「大鳥居山」を地元のことばとして「おどりやま」と呼んでもいいし、また、書かれたままの「おおどりいやま」とよぶのも差し支えないことです。
御嶽山と清原氏とのかかわりについては、さきの第一章(1)盆地と御嶽山、(2)白滝観音の項で述べたとおりです。
前九年や後三年合戦の始まる以前、平安後期における中央支配の圧力の強まる中、「出羽六郡」を守るための三十三観音信仰にふかく帰依していく大鳥居山清原宗家。陸奥への援兵を送ることで、一時は出羽も安泰に見えたものの、清原一族の内紛が大きく災いして金沢柵の落城と運命をともにしてしまう大鳥居山柵。出羽を攻めた一方の将、清原清衡はもとの姓藤原を名乗り、やがて平泉にいくさのない仏法聖地を造り、村々に寺院を造営したとされます。三男小館三郎正衡を横手関根柵(大鳥居山柵)に置きます。正衡は、この地に明永山大儀寺を建立、これが現在の大儀寺正平寺となったものと古記録(「大儀山正平寺縁起並大儀寺来由」)は伝えています。
平泉が、いま、世界遺産に登録されようとしているのですが、大鳥居山に拠った清原宗家の三十三観音信仰とのつながりの究明など、大きな課題が残されています。
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