山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(11) 上野台

  中の橋を渡ると上根岸(町)、すぐの高台に裁判所がみえます。裁判所のあるこのあたりは、上野台(こうずけだい)と呼ばれ、また、「台」とも呼ばれたものです。昭和四〇年四月一日の住居表示実施によって、 今は城南町(しろみなみまち)。歴史のふかい上野台の地名も町名も、新住居表示によって、無残にも吹っ飛んでしまったようで心痛む思いがしてなりません。

もと「上野台」位置図

⇒「上野台」部分拡大図


  北に横手城本丸趾(秋田神社)がすぐです。

  南がわには清水沢をはさんで愛宕山。東がわは山で、滝ノ沢へ行く道が一本。この裁判所のある高台からの眺望がよく、町並みの一望のうえに、まっすぐにはるか遠く鳥海の雄姿がうかびます。眼下に旭川です。

  古い「横手城下絵図」には、人家もなく、ただ、「台」とだけの記載ですが、ここを横手城の「三の丸」とみる説もあるようです。城にとっては重要な位置ではあったとしても、どこかさびしげな「台」であったものでなかったでしょうか。

・・・地名の起源は、寛永元年(1624)元宇都宮城主本多上野介正純(ほんだこうずけのすけまさずみ)とその子、出羽守正勝(でわのかみまさかつ)を預けられた佐竹義宣が、横手の城代須田美濃守盛秀に預け、城の三の丸に相当する高台に居館を新築して幽閉し、正勝は寛永七年(1630)七月、父正純は同十四年(1637)二月に没し、ともにこの高台の東方に葬られたことに由来する。

  寛文一二年(1672)横手城代となった戸村十太夫義連が、翌年三月、この高台の拝領を願って許され、・・・・・・享保一三年(1728)の「横手城下絵図」に“上野台”の名と、戸村十太夫家来の屋敷割が見えています。

(「秋田県の地名」平凡社刊)

  地名「上野台」の由来が手短かに記されています。『本多上野介正純』の幽閉の高台であったことがわかります。その人、『本多上野介正純』という人はどんな人だったのでしょうか……。

本多正純 ほんだまさずみ

  一五六五年(永禄八)~一六三七(寛永一四)江戸時代初期の大名。正信の長子。幼時から徳川家康(1542~1616)に近侍し、信望厚く…権勢は他を圧した。一六二二(元和八)最上義俊の領地没収に出羽国最上に赴いた時、突然、秀忠の勘気に触れ、下野国宇都宮(栃木県)一五万五〇〇〇石から由利五万五〇〇〇石に流託を命じられた。しかし、自らこれを辞退し、翌年、仙北郡大沢郷に一〇〇〇石を与えられた。次いで佐竹義宣の預りとなり、横手に移され、その地で病没した。

(「秋田大百科辞典」)

  〈宇都宮釣天井〉(将軍暗殺事件)は、後世、憶説に粉飾されて逆臣本多上野介のイメージがつよかった。しかし、実際は、権力の座から突き放された悲劇の主人公であったようです。幕府内の権力争いの犠牲者ということでしょうか。確かに将軍秀忠の姉が一枚噛んでいて、反正純派と共に将軍への讒訴(ざんそ)が、結果として宇都宮事件を生ませたといえます。どうみても、二代将軍秀忠に正純をみる眼がなかったといえるのかも知れません。

  佐竹義宣は、関ヶ原合戦のとき、石田三成側についたことで家康の戦後処理はきびしく、常陸(茨城県)五〇万石から出羽一二郡への国替えを命ぜられることになったのですが、出羽一二郡の石高は常陸と同じだからと羽後六郡に減じさせたのが正純だったのです。

  由利配流を山形で命じたのも幕府の遠謀、さらに佐竹義宜に托幽、横手に預けられることとなったのも運命のいたずらと言えばそれまでですが、じつはそこに幕府の思惑あってのことだったでしょう。

  しかし、義宣は丁重に扱ったといわれます。だが、幕府は正純を反逆人視し、のちには、人の出入りも禁じ、居室の窓を板で蔽いもしたと伝えられます。子正勝に先立たれもした正純の心中、察するものがあります。

  明治に入って、この高台に裁判所が建てられたのですが、上野台の人たちは、「明治の頃、古い井戸が裁判所のうしろにあった…」(*「横手郷土史史料78号」)と伝えられているほどですから、正純幽閉の屋敷跡であったことを示す、生活の場からの検証を物語っているといえます。

  また、裁判所南側のじき下、清水沢生まれの方のお話しでは、「こどもの頃、叔母が裁判所に勤めていたもので、よく裁判所の裏の井戸水を飲みに行ったもの。冷たくて、おいしかった。井戸の隣に、ちょっとした台地があって、松だとか柿だとか植えられ、ちょっとした祠も建てられてあったもの」(大正九年生まれの女性)と、昭和のはじめの頃まで井戸水があったといいます。正純幽閉屋敷跡であったことを物語る古井戸と受けとめていいでしょう。

  裁判所のことで、もうひとつ。

  「明治41年七月一日、〔本多上野介正純の墓石建立〕」の記事を示すのが「横手郷土史年表」です。

  横手区裁判所に秋田地方裁判所横手支部設置を記念して時の検事伴長悳、監督判事堀口貞文の両氏が発起、裁判所の後方、上野台町の山裾に葬られ、断碑さえもなく、薮茂 るなかに塔婆が傾き、荒れるにまかせていた徳川創業の権臣、本多上野介正純、出羽守正勝の父子の墓所に、横手区裁判所、同検事局職員によって整地し、現在の墓石を建立、英魂を弔った(〔本多上野介建設趣意書〕)

  さらに、「同年表」に〔本多上野介墓所改装〕の次の記載もみられます。

  昭和四二年〈1967〉九月二二日 城南町の現在地に改装中の本多上野介墓所が完工し二十二日に除幕式を行った。改装建立の碑は、高さ四メートルのみかげ石に「本多上野介正純父子終焉之地」とほり、台座は中央部を自然石とし、四囲を高さ二メートル五〇、幅四メートルとして、みかげ石で囲ったもので、参道は幅一メートル五〇、長さ十五メートルに整備したものである。

  こうした墓碑建立とは別に、「本多正純公を学ぶ市民の会」が平成十六年十月に結成されるなど、「上野台」がまったく新しい視点から見直されるようになってきています。正純が城主だった「宇都宮」との交流も行われるなど、歴史の再検証へ踏み出しています。

  今、墓碑前に市の案内板が建てられています。

本多上野介正純墓碑

  徳川幕府創業の権臣であった本多上野介正純、正勝父子は二代将軍秀忠暗殺謀叛の企て(宇都宮釣天井)があるとの疑いをうけ、寛永元年(1624)佐竹義宣に預りの身となり、横手城代須田美濃守盛秀のもと横手城三の丸の居館に移した。子正勝は寛永七年(1630)三十七才で病死、父正純は悲嘆の日々をすごし、寛永十四年(1637)七十三才にてさびしく一生を終えた。

  文面のはじめ、「正純、正勝父子は……疑いをかけられ」と記述を急ぐあまり、正確さを欠くし、「悲嘆の日々をすごし、……さびしく一生を終えた。」の記述も、さも見てきたかにとられる主情的な扱いも、「案内板」としては、ふさわしいとは言えないようにみるのですがどうでしょうか。

  墓碑への石段をあがったところに、どこから落ちたのかクルミが二個。もうすっかり朽ちてしまっていて、なんとも無残に映りました。


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