山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(13) 愛宕山

  市の水ガメならぬ浄水場貯水タンクの丸いドームが、愛宕大橋から望見されます。すぐ目と鼻の先にです。その山が愛宕山です。

  桃雲寺の裏の墓地からすぐの、愛宕山上り口南口(上内町)の急坂を登りきると、このドームにでます。赤松が松食虫にやられて無残ですが、ここから眺められる市街の大景はなかなかです。このドームの横を通って北に(清水沢側)に下りる約一キロの道と、ドームの上の道から東へぐるりと回って、もとの南口にもどる約二キロの道とがあります。こっちの道は、山を下ったところに新しくできた“みずほの里・ロード”のトンネル入り口近くにぶつかり、危なっかしい道になってしまっています。

  昭和八年刊の『横手郷土史』」の〔上古 原住の民〕の項から、「愛宕山」を抜き出してみると次のようです(漢字が多いのですが、少しがまんしてください)。

  愛宕公園(朝倉村) 貝の蔓と毛無山とは共に未だ遺物の発見を聞かない。貝の蔓の段々は水の作用に因るものなるべく毛無山の人工の跡は横手の築城に当たりて石を切り出した跡である。……此毛無山から愛宕公園に移る時、ここに横手の有する先史時代遺蹟中の最も興味ある区域が現れる。古刹無量壽院の在る谷を囲んで取り巻く峯々には随所に直線式空壕の之を横切るあり、其の或物は沢川に臨む崖へ折れ廻って段と変じ、其の或物は谷に面して山を廻り階段状をなし、或は断崖に出でて絶え、或は草刈道に利用せられ、此の林間暗き小さな谷を取り巻く峯々に其の数十三条、分岐する峯に一条、更に無量壽院後方の峯と塒跡との中間高地は、自然の凹凸をその侭ながら三十間に四十間ばかりの平坦に近き野をなし、此の高地を囲んで深き環状の空壕がある。小野寺時代築城着手の後中止の伝説あれども固より信ずるに足らず(此の地方「築きかけ館」「一夜城」等の名に遺る物は殆ど例外なしに先住民族館址である)却って蝦夷系統の館の形式に一致して居る。おそらく、此の空壕を有する峯々によって取り巻かれた谷間の林間に先住民族の住居地が埋れて居るのではあるまいか。…

  要約すれば、愛宕山に見られる十に余る直線式な空壕は、先住民族の館跡(住居跡)である、といっていることです。「深き環状の空壕」ともいってますが、愛宕山のあちこちに巡らされていると言えるほどです。

  貯水ドームの上の道を少し行くと、「先住民族住居跡」の石碑が土に埋もれそうに建っています。愛宕山を地図でみると標高一〇〇メートルの線がみえ、「チャシ」の記号が示されています。この「チャシ」はアイヌ語で、「砦」(とりで)の意といわれ、「自然的な地形に恵まれた丘陵の突端の一部に壕をめぐらし、土をならしてあるものが多い」(「広辞苑」)の記述そのままといえます。愛宕山の空壕も、チャシについても、これからの研究に大きく期待するばかりです。

  さきの石碑の近くに、「愛宕山開園」(昭和六年八月一日)の碑があります。幼い日の記憶をたぐりよせると、昭和十年代はいくつかの空壕にはちゃんとした木橋が懸かっていて、渡るのがちょっとした冒険じみた感じがして楽しいものでした。それに、アズマ屋が二つ、三つ建てられてあって、“ようこそ愛宕山へ”といった、いかにも山のだいじにされている雰囲気があったものです。セミの名所で、ハネの透き通ったマツゼミ(あるいはクマゼミ)取りに、夏休みの朝は早起きして登ったものでした。赤松の幹をデンとふんづけるとセミが落ちてきたものです。

  愛宕山からは矢じり、また石器類など出土したといわれ、それに写生に来た小学生が小判入りのカメを発見して話題になったことがあります。

*註=昭和51年(1976)9.27 市内愛宕山で小学生が慶長一分金など時価二〇〇〇万円相当の金貨の入った壷を発見 (『横手市史』〈昭和史年表〉より)

  ほかにも、まだ眠っているかも知れません。

  藩政期、文政七年(1824)に横手を訪れた紀行家・菅江真澄は、「雪の出羽路」の〈横手前郷邑〉の項で「愛宕山」について次のように書きとめています。

  横手前郷邑

○愛宕護ノ社 あたごノやしろ
東の岡のべに座(ませ)り。此社はむかし横手の守護神にして朝倉山のひむかしに在(いま)して、本卜は横手佐渡守斎(いわ)ひ奉れる御社ながら、今は前郷にみやどころをうつし奉りたり。さるよしをもて横手には愛宕の山の名の みぞ残りける。おたぎ祭りはとしごとに四月廿四日。別当大賓院也。

  近世に入ってからの愛宕山の歴史が一見できます。ただ、「東の岡のべにませり」をどう読んだらいいのか気になるところです。しかし、前郷の「東の丘」地なれば、とうぜん神明社の位置ということになるでしょう。

  「朝倉山のひむかし(東)」は愛宕山の位置を示しているのですが、実際は南にあたるでしょう。平城時代の愛宕山が見えてきます。なにかわけがあって前郷の神明社に移し、だから、愛宕山の名だけが横手には残っている、と。愛宕山から移したのは、どんなわけがあったかについては触れていませんが、平城合戦焼き打ちのことが影響しているのかも知れません。くわしいことは不明です。

  ところで、「愛宕の神」とはどんな神なのでしょうか。さすが辞書の説明は簡明です。「あたごさん〈愛宕山〉 京都市北西部、上嵯峨の北部にある山。標高九二四メートル。山頂に愛宕山神社があって、雷神を祀り、防火の守護神とする。あたごやま。」(「広辞苑」)

  見えてきたようです。「雷神を祀り、防火の守護神」としたものを、ふつう、「愛宕山」と呼んできたようです。それでは、京都を遠くはなれた秋田ではどうだったでしょうか。

○愛宕神社

……近世、各地の城下町にある小高い山を愛宕山といい、愛宕神社が置かれた。町名は愛宕町。本荘、亀田、横手、角館、湯沢、秋田、土崎にある。総本社格は京都市右京区嵯峨愛宕町の愛宕神社。本宮と若宮とがあり、本宮には別当僧が入って勝軍地蔵を安置し、勝利の神とし、若宮には迦遇槌命(かぐつちのみこと)=火の神をまつって鎮火・防火を祈願した。城下町の武士は武神として愛宕神社を崇敬し、町人は鎮火・防火の神としてまつったから、一つの神社が二つの目的を果たして繁栄した。

(「秋田大百科事典」)

  愛宕山神社の神は、ひとつは武神、もうひとつは鎮火・防火の神として崇敬されたというのです。遠く平城の時代に、愛宕山に祀られたというのですが、いつの頃からか、いまの神明社に移されたという歴史をもつようですから、横手の場合は、ほかの町とは違った、別な道をあゆんだひとつの例ということでしょうか。これは、平城合戦の焼き討ちがもとになったとも考えられますが、これについては不明のままです。真澄が言うように、「さるよしをもて横手には愛宕の山の名のみぞ残りける」と感慨ぶかげですが、どこかさみしげな物言いとも感じられてなりません。

  南小学校校舎うしろから清水沢に出ると、すぐの右手に、愛宕山へ登る石段があります。ここを登って、約三百メートルほど行くと、「飛躍」と刻まれた南小学校創立百周年記念碑がどっかと建っています。樹間越しの木漏れ日が揺れて、少しさみしげでもあります。

  創立百周年を記念して、当時の平川英一校長が全職員と図り、愛宕山散策路整備に全校あげて取り組み、北口に「愛宕山案内図」が建てられるなど。案内板はいまもそのままに人待ち顔に建っています。特に、散策路にそっての「植物群落標示板」、また、「植物標識板」の設置などは貴重なものです。そのいくつかは、いまも残っていますが、損傷が惜しまれるばかりです。その後、真新しい「植物標識板」が二十数枚、同校の野外観察部の子どもたちの手によって立て替えられ、散策路を楽しませてくれています。

  「城付風致地区」(昭和43年建設省告示)の標柱はあっても、まだまだ市民にとって生かされているとは思われない愛宕山です。夏の緑、秋の紅葉に染めあげられる散策路は、お城山とはまた違った、それこそ自然そのものがそのままに息づいているのですから。ジョギングコースにもよく、南口には崖から清水が湧き、年中涸れることなく、またそのつめたさは格別です。

  先住民族の人たちもこの岩清水を飲みに来たものでしょう。南口ヘ下りる途中にはカモシカの来たあとを見ることもあります。つめたい水を飲みに来たのだったかも知れません。

  「愛宕山自然公園」としての新しい整備がのぞまれます。

  あわせて、「先住民族居住跡」についてのもっと市民にわかりやすいくふうがあってもいいのではないでしょうか。


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