山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(8) 平城

  平城が地図に書き表されるようになったのは、明治に入ってからで、藩政期といわれる時代の絵図には、ただの一度も取り上げられなかったようです。「横手城下絵図」などをみると、「横手城」を中心に町並み が書き表されても、平城の地名は示されず、そのあたりはただ真っ白。そんな平地に構えた城などあったものだろうかと、だれにも「幻の平城」でしかなかったのでないかと思われます。

  北に大鳥居山。石町、八幡、関根につづくように平城。横手川に沿うようにです。この平城の南に正平寺が位置します。

横手平城跡推定図


  わずかにいくつかの古記録などに平城が出てくるだけでしかなく、横手の町の人たちには伝承というかたちで、かすかにこの「幻の平城」は生きてきたものといえるでしょう。この「幻の平城」の存在に、はじめて目を向けさせたのが、次の「平城の調査」という報告です(「横手郷土史資料/第10号 昭和2年12月20曰発行)。

  平城の調査

平城趾は、現所有者・前田氏(横手郷土史研究会副会長)の先祖が開墾したもので、「助右衛門墾き」と言われてきた。今、墓地のある部分に接続した水田あたりを注意してみると墓地に沿って、一列に東西に通る苗代田があり、線路の近くで北に折れ、同じように水田が並列する。

  この間違いなく壕の趾とみられる線をたどっていくと、七面社、妙晴寺へかけて、およそ百間四方ぐらい(註=一間は約1.818メートル。百間は181.8メートル)の壕と土塁とに囲まれた四角な城の敷地を描く事ができる。(中略)

  近ごろ住宅地不足の声にこたえて、このあたりを住宅地にしようと、縄張りしたり、土を盛ったりの工事中、十二月一日にぐうぜん人夫が土中から土器の破片数個を掘り出し、前田氏に届けたので、翌二日、深沢・大山両委員が、右破片を調べ、ただちにその発掘現場を踏査。

  その地点は三本柳街道の付近で、小田島清次郎氏の助力でさらに破片数個をみつけることができた。土器は、内側無紋の須恵土器で、地表下約二尺(註=一尺は約30.34センチ。二尺は約60.6センチ)のところにあり、なお、そのあたりには炭や焼石があり、また、灰のあることなどから、おそらく古史料にみられる天文年中のいわゆる小野寺景道が報復戦に石町、本町、荒町、関根と焼き打ちをかけた佐渡攻めのあとと思われる。(後略)

(註=原文はむずかしい文体なので、読みやすい現代文に書き直したもの。)

  「平城の調査」の要点をみっつにしぼることができます。

  ①平城趾とされる跡地は、前田氏の先祖が開墾したもので、「助右衛門墾き」と言われてきた。
  ②およそ百間四方ぐらい(約180メートル四方)の壕と土塁とに囲まれた城の敷地を描くことができること。
  ③住宅地工事の縄張り・土盛りの作業中に、人夫が土中から土器の破片数箇を発見、その土器のほかに炭・焼け石、また灰などをみることができ、古史料の、天文年中(1532~54)の横手町構えの焼き討ちのあったことと考えられる。

  これはたいへんな報告といえるものです。これまでは古記録をとおしてしか平城の姿を見ることが出来なかったのですから、この「平城の調査」は、これまで古記録に書かれたものを物的にも数的にも、はじめての報告となったたいへん重要なものといえます。これまで、「幻の平城」であったものが、確かな存在として、まったく新しいとも言える「平城」をわたしらに見せてくれたことになります。

  まず、平城趾といわれてきた地は、藩政期には「助右衛門墾き」となったといい、前田氏の所有であったというのですから、平城趾地のひとつの歴史的な変遷をみることができます。土地の条件というか、水利とのかかわりなどで、住宅地に変わっていくようすまでも見えてくるようです。

  「およそ百間四方ぐらい」とする平城の城跡の推定にしたがうと、約一八〇メートル四方ということで、城としてはこじんまりとした広さということになります。これは推定ですから、うのみにはできないでしょうが、あの広大な“沼の柵”から移住したというのですから、それなりの意味は小さなものではなかったことは確かでしょう。しかも川に近い位置、それに大森街道に沿うなどといった地理的な選定は、この地の重要性を見抜いたものだったことまで浮かび上がるというものです。

  それに土中からの土器破片の発見といい、炭・焼け石・灰の検出からして、古記録の「奥羽永慶軍記」がいう、〔・・・川を渡し、横手町構に攻め入り、関町に放火すれば、石町、本町、荒町数百軒余烟天をかすめ焼亡す〕の〔横手町構〕の焼亡が、すなわち平城としているのと合致します。

  このすぐれた「平城の調査」報告が出されてから、このことを補強するもの、また新しい調査(発掘)報告といったものも出ていません。

  ただ、補強的に平城との関連を示す、「横手の歴史」(伊沢慶治著)の〈四、小野寺氏〉の項の次の記述かあるだけです。

  国鉄奥羽線の三本柳の踏み切りを渡った所に、伊勢屋という菓子屋があり、大正年間にこの家を新築した際、一メートルほど土を掘ったところ、焼けた土や焼き米のようなものが出て、工事の人がおどろいたという話があるが、天正年間の焼き打ちに関係があるのではないかと思う。

  こうした事実的な積み上げが、どうしても不可欠です。このほかは報告されていません。残念なことです。せっかく、「幻の平城」がみんなの前に、その姿を見せ始めたというのに・・・。

  散歩の道も万事窮す、といったところ。で、ここらで古記録のなかの平城をかけ足でかけぬけてみようかと思います。

  平城にかかわる古記録『大義山正平寺縁起並大義寺来由』(「雪の出羽路」)などをもとにして、「平城」から「横手城」へのあしどりを年表風にまとめてみると次のようです。

寛治元年(1087)~・後三年合戦終わる。
藤原清衡、三男小館三郎正衡を横手関根柵(大鳥居山)に置く。正衡、明永山大義寺(奥州平泉中尊寺末寺)建立。

文治五年(1189)~・源頼朝による平泉藤原氏一族討滅によって、横手の大義寺も荒廃。

*〔正中三年(1326)・正中碑(板碑)〈文政の頃、大水戸より出土〉〕

長禄年中(1457~60)・小野寺泰道、沼館より平城に移る。
・現在地(田中町)に大義山を再建。大義山正平寺と改める。

*正平寺造営の地は「(小野寺)家中、大御堂三左衛門屋敷成田地、大御堂字所是也」

文亀元年(1501) ・泰道没。正平寺に葬られ、その五輪塔がある。
・〔正平寺の銅造十一面観音は蓮台から仏頂までの高さ六寸七分、仏の背後の衣の部分に〈清衡守〉と刻まれている。〕

天文一五年(1546)~・横手平城、金乗坊・横手佐渡らに奪われる。父を討たれた小野寺四郎丸は羽黒山に逃れ、三年後、平城を攻め取る。この時、平城焼亡。
・四郎丸、成人して輝道を名乗る。横手城を造る。

慶長五年(1600)・小野寺義道、徳川家康の勘気にふれ、津和野へ配流。

同 七年(1602)・横手城は佐竹藩の支城となる。

  古記録でみる歩みで、平城のおおよそのあしどりがつかめます。

  平城は、正平寺とふかくかかわっていて、そのもともとは大鳥居山ノ柵を攻めた一方の将、藤原清衡や、その三男正衡とつながりをもちます。そして、なんといっても小野寺泰道です。沼の柵より横手平城に移ることによって、歴史の表舞台に平城が躍り出るもとをつくります。泰道の時代、平城は三郡を支配する地理的にも重要な位置であったに違いありません。

  ここで年表風にまとめたなかに問題点(*印)ふたつに足を止めてみることにします。

  ひとつは、*〈正平寺造営の地〉についてです。

  年表での記述は「秋田県の地名」(「平凡社」刊)〔正平寺〕の項からのもので〈正平寺造営の地は、「(小野寺家)家中大御堂三左衛門屋敷成田地、大御堂字所是也」(「雪の出羽路」)とあって、正平寺の建っているのは「大御堂字所」なのだと読める書きぶりです。これはどうしても〔大水戸町〕になってしまうのです。この間違いは「雪の出羽路」の原文の読みちがいかと思われます。原文部分は次のようです。

公卜曰 指城南地 当山開基公 自沼館移 平城居住 家中大御堂三左衛門屋敷成田地 大御堂字所是也 其後小野寺景道横手御城造作居城ス 造営伽藍

(「大義山正平寺縁起並大義寺来由」)

  〔公(泰道)ト曰 指城南地 … 造営伽藍〕の文のひとつながりは 〔泰道公トして(占って)曰く、城南の地を指し、伽藍を造営〕で、(平城の城南の地に寺を造営)ということになります。薄い文字で示されたのは〈註〉で、その主内容は、泰道と景道の城についてです。泰道の平城についての説明は、①沼館より平城に移り居住、②家中、大御堂三左衛門屋敷、字所のことのふたつ。景道については、横手城造作、居城のこと、ひとつ。

  薄い文字の部分を(註)、それも城についての(註)なのだと理解すれば、〈大御堂屋敷、字所〉は平城のもともとの土地がそうであったのだという説明と読めます。薄い文字部分を正平寺についての(註)なのだと読めば、説明されている土地は〈大御堂〉になってしまい、現在地との混同が生まれてしまいます。平城にならなかった隣接の土地は、あとで〈大水戸〉となって、今も生きています。〈大御堂=おおみどう〉が〈大水戸=おおみど〉になったのは方言としての法則がはたらいて長い音が短い音にかわり、あわせて漢字もかえたからです。それに、〈大御堂字所〉のなかに〈田中町〉があったものかは不明です。ここはどうしても薄い文字部分は「城」についての(註)と読めば混乱はなくなりましょう。

  *註=“横手城造営”について、『雪の出羽路』では、「其後小野寺景道横手御城造作居城ス」と「大義寺来由」をもとにしての記述をとっていますが、近年の研究では、景道ではなく輝道である、とします。ここでは、『雪の出羽路』の記述のままとしたもの。

  もうひとつ。
〔正中碑〕についてです。“板碑”そのものが古い時代のものであることは、よく知られています。そうした事情を「秋田県の地名」(平凡社刊)の〈大水戸町〉の項に、この碑についての次の記述があります。

…「雪の出羽路」に、町の成立は文政六年(1823)で、「古は大水戸といふ田字(たのな)なりしを、今町を作りて角間川街道に五十八戸軒を並べる」とある。……この町の家作りのために土をならしたとき、「墓誌石一つ掘り出たり、その石に梵形有りて正中ノ年の号仄かに見えたり」とあり、この墓誌石(板碑)を菅江真澄は小野寺系図に「雄勝、平鹿、仙北三郡庄主」小野寺小弼道有(みちとし)の弟、遠江守信道(のぶみち)が後を継ぎ、正中三年(1326)に没したとあるので、その墓誌石であろうか、と示唆している。…

  この信道の三代あとの春光(はるみつ)が、春光寺の開祖といわれ、その春光の孫が泰道です。ややこしくなってきましたが、現在、平城のすぐ隣りの妙晴寺境内に、この正中碑が建てられています。大水戸からの出土とはされているものの、その場所は不明です。かりに妙晴寺に近い場所であったとすれば、平城とのかかわりの大きいことがわかります。それに、平城に移ったとされる泰道のその長禄年中(1457~60)は、正中三年(1326)から一三一年後ということになり、一三一年前にこの碑がここに建てられたものなのか、あるいはどこかから運ばれたものなのか、これもまた不明です。この点も大きな謎のひとつです。

  菅江真澄も『雪の出羽路』の〈○大水戸町〉の項のその終わりに次のように記述しています。

……その正中三年は嘉暦元年にして、文政九年のことしまで、凡四百九十年におよべり。

  真澄が横手を訪れた文政九年(1826)からでさえ、約五百年になることに大きな嘆息をつき、この正中碑の大きな謎を前にして立ち往生しているようすが見えてくるというものです。

  やはり、こうみてくると、正中碑をふくめて、平城は、まだまだ「幻の平城」であることをぬぐえません。それに加えて、もうひとつ、「謎の平城」とも言うべきでしょうか。


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