山と川のある町 歴史散歩

第四章 地名めぐり・町名めぐり

(4) ふるまぎ(古間木)

  沼山の北、山あいの一軒か二軒といった小さな村でした。多いときなど八戸もあったと古記録にみえています。まわりが全部山ばかり、山中の隠れ村というところだったようです。杉沢の一の坂がもっとも近いの ですが、横手山内九ヶ村の中のひとつの村でした。別に「丹波村」ともいったとあります。もと山内村の公的な書類には「丹波村」と書かれることが多かったようです。どうして《古間木》なのでしょうか。

古間木周辺地図


  これは現地をたずねるとすぐわかります。山あいですから、そんなに広いとはいえないのですが、牧場があるのです。なだらかな斜面が利用された放牧場です。ここまでは車でいけます。車をおりて、山あいをすこし登ると比較的平坦な場所に出ます。家が数軒あってもいいほどの広さのところです。家の跡であり、田んぼの跡かと思われます。一番奥まったところには、木屑が散乱していて、もと住居跡かと思われます。山の水をよく利用したと思われる田んぼ跡も推定できます。

  ここに一番近い一の坂の人たちの放牧場です。一の坂の隣りの地名は《長者森》、すぐに吉沢です。「長者森付近の船着き場跡や、糠塚、駒石、馬ころがし、駒ヶ岳沢、古間木《古牧(こまき=ふるまぎ)》などの地名から、長者すなわち駅長(えきおさ)とする推論である」(「秋田県の地名」平凡社刊)と述べ、つまり交通の手段がもっぱら馬であった時代の駅長の存在を推論しています。《長者森》の地名そのまま、ずばりの推論です。この山あいの「古間木」こそ、「古牧」(こまき)から出たことばであったろうと考えられましょう。

古間木周辺詳細地図


  それでは、「丹波村」はどうなのでしょう。次の記述は『山内村史』からの引用です。

○ 丹波村

  村名について「むかし丹波といふ浮浪人開きたる処とや」と菅江真澄は推定している(『雪の出羽路』)。

  宝永二年(1705)の『平鹿郡村々御黒印高帳』(秋田県蔵)に当高二石八斗五合とあり、新田のみ、免は四ツとある。

  享保三年(1718)の『御物成皆済目録』には丹波開村とみえ、『六郡群邑記』には「丹波開村開字除かる家員八軒、山内村支郷別黒印、或いは古内木村とも唱也」と記される。

  幕末期の『六郡郷村誌略』に、「横手ノ東二里半余、山ノ七八合目高キ所ニアリ 高三石六斗八合 本田並 免四ツ 家一戸 横手山内村ニ属ス 先祖ハ丹波ノ国ヨリ来リ世ヲ避ルト云」とある。明治五年(1872)には当高二石二升で家数一軒(『上下掠御ケ所之届書』)となる。明治五年(1872)から二二年(1889)までの間に大松川村に吸収合併されたと考えられる。いまは人家はない。

  「丹波」の国から来た人の開いた土地(村)といいます。「丹波」は「旧国名。大部分は今の京都府、一部は兵庫県に属する」(『広辞苑』)とありますから、遠い所からやってきたものです。なにかわけでもあったものでしょうか。不便さは別としても、考えようでは山の幸に恵まれてのくらしですから、悠々自適であったのかも知れません。ごく最近、ここ丹波村に婿入りしたのが、もと山内の平石からといわれます。平鹿病院に入院された平石の方から聞いた話です。「自然に恵まれたいいとこだけど、近ごろは町の人が山荒らしにくるようなもんで…」と丹波村の人がこぼしていた、とも話しておられました。なんとなくわかるような気がしてなりません。

  丹波村(古間木)から、一の坂に移住したともいわれています。その移住の際、氏神様の祠から、宝物のありかを記した地図(方位図)が出たともいわれ、小さな村の大きなロマンを感じさせられるニユースでもありました。わらびとりの季節、山でばったり会う人がいたら、もと丹波村の人であったりするかも知れません。


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